反復と断絶
textes/思考
written 2009/11/15
フロイト-ラカンが重要な概念として強調する「反復」とは、反復強迫、まずは「外傷の反復」である。フロイトは「快楽原則の彼岸」(1920)の中で、主体にとって疎ましく、破壊的なものであるような外傷の記憶が、なぜ神経症者の夢に繰り返し現れてくるのかという問題を考えていき、「自我欲動 = 死の欲動」というアイディアに到着した。
クロード・レヴィ=ストロースが「未開」社会の神話や民族誌から抽出してくる「反復」は、天体の運行・季節の移り変わり・昼夜の交代・人の生死と世代交代・女性の月経などによる「周期性/リズム」を構成している。
「反復」は個別的な意味を超えたところで「構造」を形成するという機能を持つ。
音楽においてなぜ「反復」が常用されるのかという疑問は、ずっと私を悩ませていた。「反復」は楽曲の構造を形成するために用いられたり、あるいは単なる「時間稼ぎ」の経済効果、または、ポピュラーソングに見られるように、特定のフレーズを繰り返すことでそれを聞き手の脳裏に単純に刻み込み、親和性をあげる目的で用いられたりする。
クラシック音楽では、楽曲制作において「反復」は明らかな作為として認識され、それゆえに「作者の意図」の現れであるとして重視される。「楽理」はつねに「反復」をめぐってつづられるディスクールである。
私の場合は、ある時期以降、「なぜ反復しなければならないのか?」という疑問にとりつかれ、敢えてそれを避ける方向での楽曲創作を試みた。そこには「反復などというものは見え透いている。それはレトリカルな、西洋流のハッタリにすぎないのではないか?」といったおもいがあった。
むしろ意図的な反復という「構成志向」を捨て、次々と浮かんでくるフレーズを容赦なく取り込んでいく。絶え間なく変転していく意識-無意識の反映であるような、とりとめのない遊戯としての音楽。こうして私は自分の音楽をどんどん「わかりづらく」していった。人がある音楽を「わかる」と思う指標となるような構造性を、意識的に破壊したからだ。
西洋型の近代的自我、「わかりやすい」自己同一性という幻想を拒否したかった。
が、そうして生まれてきた楽曲は、単純に即興的なものとなっただけだったようにも見える。
即興性や流動性は、結局は、自己同一性の否定にはつながっていなかったのだ。
即興性、流動性は最終的に同一の主体から発せられるパロールとしか受け取られないからだ。
本当にほしかったのは、断絶、非連続性だった。
主体の維持を著しく困難にしてしまうような、裂け目。恒常性を裏切り、覚醒、不安、恐怖を呼び覚ますような、穴。
音楽で通常求められているのは「連続性」である。ある楽節から次の楽節に移る際に、できるだけスムーズに、「自然に」移行していくことが、好ましい。この音楽の基礎的ドグマから逃れることは、容易ではない。私も常に、自分の音楽が「よく流れるように」書いてしまうのだった。今年3月に書いたフュージョンふうの作品「マーヤ―」では、ときどき反復される主要メロディ(「マーヤ―、マーヤ―」と歌われる部分)を除けば、可能なかぎり雰囲気を変えながら、新たな楽節に到達するための旅行を繰り広げている。調や拍子のはげしい変更もまた、「新たな場所」を探すための「あがき」のようなものだ。
が、結局、各楽節はスムーズにつながっており、全体としてまとまりのない・ラプソディックな様相を呈しながらも、おおむね破綻のない楽曲になってしまっている。
この音楽的な「自然さ」のドグマの意味は、「美とは、安定した主体による技巧の集積の上に構築される」という近代的常識である。その主体が安定していなければならないのは、まさに、「芸術家」神話を支持しなければならないという、時代の強迫があったからだ。
いっぽう、私がずっと見つけたいとおもっている「美」とは、これとは正反対のものなのだ。
破壊し、攪乱し、不安にさせる、つまり「他者との衝突」がもたらすような、瞬間の美を、私は求めていたはずだった。
私の直観では、ジョン・ケージやイーゴリ・ストラヴィンスキーの音楽には、それがある。
ジョン・ケージのあからさまな断絶性理論の表象は、「Radio Music」という「作品」としてサンプル化されている。これは誰にでも制作可能な音楽だ。ラジオのチャンネルつまみを、ひたすら回し続ければいいのだ。ノイズの合間につぎつぎと、さまざまな娯楽音楽、クラシック音楽などが現れては消えてゆく。曲を追おうとしても、たちまちノイズの中に去ってしまうので、それらの音楽はいつも否定され、舞台裏に押し込められることになる。そこで「聴く主体」は、これらの音楽とは別の場所に留まらざるを得ないことになる。各番組の音楽と「聴く主体」のあいだには、無限の断絶がつくられるわけだ。
小説でいうと、フランツ・カフカの『変身』の永遠の美しさ、衝撃は、「主人公が突然毒虫に変身する」という幻想にあるわけでは、まるでない。虫となりナンギしながら、主人公グレゴール・ザムザはやがて死んでしまうが、その瞬間、家族の雰囲気は急転する。グレゴールの妹がいきなり生き生きと明るくなり、両親はそこに希望を見いだす。この驚くべき転回点にこそ、この作品の卓越がある。まさに、死という断絶を契機にした「他者への飛躍」の、戦慄的な美がひかり輝く。
「反復」が「非連続」の様相を呈して出現してくる例は、音楽ではなかなか考えにくい。
スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックの場合、小さな音型が限りなく反復されるが、この場合は小さな細胞が連鎖し、リズム・シーケンスとして活用される類の反復であり、このようなビート型の反復体制は、同型物の敷き詰めという意味で機械的イメージを喚起するものだろう。それはひたすらな「持続」である。
モーリス・ラヴェルの「ボレロ」は同じ旋律を何度も繰り返していくが、これも隙間なくエレメントを並置した「持続」型の反復である。
持続型の反復は、反復要素a = セル(細胞)を横方向に隙間なく並べ、大きな枠の中でゆっくりとクレッシェンドしたり、微妙な変化を加えてゆく形で、楽曲を構成する。
この等価セル配列は、レヴィ=ストロース的な意味でのリズムを体現する。ビートと同一化した反復は、ライヒでなくても、あらゆるポピュラー・ミュージックで用いられている。ハービー・ハンコックの「Cantaloupe Island」のように、フレーズ=セルのうねりは定型ビートの上での「ノリ」という遊戯性を獲得する。この原理はファンク、ロック、ヒップホップ等の原型だ。
より細胞が大きくなり、おおまかな楽節が繰り返して現れる場合、たとえば古典主義時代の「ロンド」のような形式感もまた、周期性の喜悦の暗喩となるだろう。「定期的にやってくるもの」が、ここでは快楽として表出される。
リズム、それは、宇宙的ないし生命的な事象の喜悦に満ちたアレゴリーである。
昼夜の規則的交代がもたらす労働の身体操作、年月を経巡る「祭り」、恵みの雨期の開始や、収穫の季節を祝う民衆の踊り。リズムは、祝祭的なリビドー放出へと向かう。
いっぽう、古典主義時代のソナタ形式のようなかたち。西洋近代音楽の基礎的形式においては、主題の反復は周期性に結びつくのではなく、「回帰」を意味する。
要素aは楽曲全体の数カ所において反復されるだろうが、それはまったく機械的なあり方ではない。逆に、機械性から逃れることことこそが、西洋近代音楽の課題であった。主題は呈示されると次の瞬間から解体され、変化・展開される。次のあらたな楽想に向かって、可能な限りスムーズに「流れ」が形成される。西洋近代においては、楽曲はこの「流れ = ストーリー」の表現形式に他ならない。
ここでの「反復」は周期性も、精神疾患的な強迫も意味していない。西洋の近代的な知が求めたのと同じように、これは弁証法、論理の演習である。
では、ラカン的な意味での「反復」、症例としての「反復」は、いかにして可能であろうか?
症例において「反復」は必然であって、それ自体構造を形成するシニフィアンである。しかしこの必然性はシニフィエを欠いている。
意味をなさない反復は、空洞として現れるのであり、それは現実的原則との断絶を表象する。
「断絶」は絵画や文学においては簡単だ。シュルレアリスムには、断絶の形成を引っ張り出す行為の快楽、そこに現れる衝撃の美しさしか存在しない。その限界は、作品形成がいつも恣意性のカオスに浸されてしまうことで、あまりにも実現が容易なものというレッテルを逃れることはできない。
<参考>作例:マックス・エルンスト(外部リンク)
音楽のシュルレアリスムなるものは、結局実現することがなかった。音楽自体が初めから、現実世界からは隔絶したものだからだろう。いわばあらゆる楽音は「シュール」なのである。
エリック・サティや6人組の感性はシュルレアリスムの時代と共通する感性をふくんでいたが、それは結局、音楽自体の構造に変更を加えることはなかった。
だが近代的音楽の構造への対比のかたちで、「断絶」を生み出すことは可能らしい。その作例として私たちはジョン・ケージを知っている。
そのようなありかたとは別の方法で、音楽における「症候的な反復」と「断絶」を現出させることはできないのか。私はこの点を考え続けている。
ヤン・シュヴァンクマイエルの映画作品は、私におおきなヒントをもたらした。そこではさまざまな種類の反復と断絶が現れる。
このような作品をうみだすことができるか?
ともあれ、私の思考は、また音楽に向かってきたようだ。
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