転生願望
textes/notes/雑記
written 2009/11/8
日本民俗学の名著、宮本常一『忘れられた日本人』(1960、岩波文庫)を読んだ。
有名な本だが、今まで読んでなかった。しかし、これを若い頃読んでしまったとしたら、たいした感慨もなく、あっさりと通過してしまっていたことだろう。
いま、若さを失い、執着を忘れ、自己の生をちょっと離れた場所から(おおむね過去のものとして)眺めることができるようになってみて、環境やラングにはめ込まれた「生」という相対的な現象を、異なる(他者の)「生」へのまなざし、そして「他者のまなざし」に基づいて切り捨てることが可能になった。
『忘れられた日本人』は素朴で魅惑的な紀行文・エッセイのスタイルで、西日本の辺境的な農村に取材し、古老のカタリをとおして村落社会の民俗誌を浮き彫りにする。なまなましい声が伝わってくるようで、リアルで、興趣ぶかい。
浮き上がってくる村落共同体は、現代日本人が失って久しいものだ。
読んでいて山間の田畑で労働する生を、想像的に体験してみる。
来る日も来る日も、早朝から日没まで、外で農作業に打ち込む。夜は村人たちと寄り集まって四方山の議論をする。女たちは陽気な猥談を楽しんでいる。若者たちはきれいな娘に目をつけて夜這いをかける。
かつて「現代の」農家の方々と接したことがある。男たちはみなやさしく、たくましく、しなやかに生きており、私などは人格的な弱さからいたたまれなくなってしまった。とはいえ、「現代の農家」は無論あくまでも現代人であって、テレビや書物やゲームにもなじんでおり、過去の伝統はそこでもやはり、どんどん失われてきている。
(一方で、私が接したことのある漁師たちはあまりに口調が粗暴で、どうしてもなじめなかった。もちろん漁師にもいろいろな方がいるはずで、私が出会ったのがたまたまそうだったのだろう。)
日本の村落共同体は、たしかに、西洋の近代的「個人」を育てはしない。だから、権力とぶつかったときも、強力に反抗的な思想や行動は生まれなかった。
この点をかつては日本社会の「欠点」と思っていたのだが、最近はそうでもないと考える。「西洋型個人主義」は、必ずしもすばらしいものとは言えないし、西洋的な文化が最高などとは思えない。
学問やテクノロジーが「発達」した(西洋型の)「現代社会」が最高だなどと未だに思っている人がいるだろうか。
人類学で語られる「未開社会」はおおむね無文字社会であって、この本に出てくる多くの語り部(インフォーマント)は文字を知らないようだ。文字があることとないこととの差異は、どうやら極めて重要な点らしい。
日本近代の権力は全国に均一な「教育」を強いた。この均一化の網は、旧来の文化を破壊し、歌を放棄した。
識字率の高さは文化の高度さをはかる物差しとして用いられているが、実は単に西洋型文化という「別の地獄」へいかに接近したかという程度を表すに過ぎない。
「文字」の理解をとおして、印刷技術が一気に享受される。すると急速に、文化は人間的コミュニケーションから記号的コミュニケーションへと飛躍する。記号が地上に降り立って、そこらじゅうを埋め尽くすのだ。この記号の密度は加速度的に増加してゆく。こんにち、大人も子供も、記号のなかでしか生きていない。
人間と人間がじかに出会い、そのはざま(関係性)から生まれだしてきた無限のニュアンスは消えていった。そうだ、それは、もはや-ない(Nevermore)。
もちろん、「自然に近い」農村の生活に憧れるという図式は、青白いインテリのドン・キホーテ的な夢想に過ぎず、じっさいにそうした世界に入ってみるとただ幻滅するばかり。こうした反論が古くから繰り返されている。
だから美化はしない。どんな社会・どんな時代にだって、苦しみが満ちあふれていることは容易に想像できる。
私がいきなり昭和初期の農村に紛れ込んだとしたら、もちろん、生きてはいけない。あまりにも差異が大きくて入っていけるわけがない。いまからでは、遅すぎるのだ。
そこで私は夢の中で、別の生を生きるしかない。
私は転生に夢をはせる。無限の反復の流れに身をゆだね、私は死に、別の生を生きるだろう。むろん、輪廻では記憶は持続しないから、その都度、まったく違う自我が形成されるはずだ。
自我はこの生とともに滅び去る。
魂は、ない。
無限に反復される、滅び。苦しみ。
そのたびごとに、シニフィアンも散ってゆく。
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