残虐な集団
textes/notes/雑記
written 2009/8/15
なんとなく骨休めにと、「ダライ・ラマ自伝」(山際素男訳、文春文庫)を読んでみた。
1950年以降、共産党中国によりチベットが侵略され、おそろしい暴行・大量虐殺・陵辱・文化の蹂躙の限りが尽くされ、ダライ・ラマ14世はインドに亡命、こんにちに至るわけだが、そのへんの事実が冷静に書かれており、生きた「史実」の迫力に心奪われる。
ダライ・ラマ14世が毛沢東や中国共産党幹部らに直接接触して得た印象等が、(たぶんほとんど粉飾せず)記されており、興味深い。欺瞞に満ち、うわべは立派そうなイデオロギーでとりつくろう中国共産党の当時の体質が浮き彫りにされている。もちろん、こんな本は現在の中国では販売されていないだろう。
ユン・チアンさんの「ワイルド・スワン」(土屋京子訳、講談社)を読んだのはずっと以前のことだったが、おなじく毛沢東ひきいる中国共産党の「文化大革命」という残虐な一大事業がすこぶる印象的で、チベットの命運とともに思い出したところだった。
もちろん、世界大戦期の日本もアジア諸国に対し残虐なこともしたのだし、こうした「残虐さ」はナチスは言うに及ばず、ベトナム戦争や湾岸戦争等での米国軍(の一部)にも見られるわけだ。
「ダライ・ラマ自伝」を読んでいて思ったのは、中国共産党のような組織体における行政者たちは、トップの主要な人物を除いてみな無名だということだ。無名者たちが織りなすこうした「組織体」は、現代日本の官僚にもあてはまることだと思うが、その成員個人個人の良心やそれぞれの特性は完全に失われ、なにやらくろぐろとした、不法な得体の知れないモンスターと化してしまっているように見える。
個人個人が互いの差異を忘却し、何らかの欲望によって結びつき、個人の「名前」が失われたとき、そこに現出するのは知的理想も道徳性も消失したモンスターに他ならない。
なぜ、集団的な自我が形成されたとき、「道徳」が消滅してしまうのか?
われわれの時代の普遍的な「道徳」とやらは、もはや宗教や統一的な世界観を失った場で、かろうじて「理屈」として残存しているだけである。たとえば「人に迷惑をかけてはいけない」とか。
このようなこんにちの道徳は、社会集団において、個人と個人がすれ違うときに両者を調停するための機能しか持っていない。
だから個人が「名前」を捨て、すなわち他者との差異を捨てて「集団」を形成してしまったとき、その場において「道徳」は機能しないのである。無名だから責任もなくなってしまう。
小中学校等に見られる「いじめ」もおなじだ。
「いじめる」群衆に紛れ込んだとき、人はおのれの名前を失ってしまうのであり、その出自も教養も道徳性も失って得体の知れないモンスターに個性を吸収されてしまい、個体としてのモンスターの欲望のままに、意志のない一個の器官として動作するだけだ。
このモンスターはもっと身近な場所でいうと、インターネットでも始終うろついている。そこでほとんどの者は名前を最初から放棄している。各種掲示板とか、最近ではYahoo!ニュースの記事の一部へのコメントだとか、そういうところにモンスターは巣くっており、憶測だけで馬鹿げた言説を流通させ、ののしる。知性のかけらも感じないこういう「場所」は、たしかに現代人の脳のなかのクソをまきちらすための装置として、よく機能しているかもしれない(まきちらさずに、銀河系の果てにでも投棄してくれればありがたいのだが)。
「共産党」がその「無名性」によって官僚的腐敗に至ってしまう、というのは、やはりマルクスじしんにも責任があるように思う。
これでは個々の「プロレタリア」は名前を失ってしまう。マルクスの唯物論とは、そうしたものなのだ。「プロレタリア」という規定以外のものをすべて捨て去ることで、人はプロレタリアになってしまう。それは個人と個人との結びつき(関係性)を消滅させた、モンスター生成のためのイデオロギーなのだ。
『資本論』は部分的にはおもしろかったものの、価値の基盤を「労働」だけに還元してしまうあたりがどうも、うさんくさい。逆に貨幣の機能が過小評価されているように感じた。
これまで読んだマルキシズム批判のうち、もっとも痛快だったのはケインズだ。ケインズはそれを「非科学的」と一蹴し、それ以上とりあげることもせずに、無視したのである。
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