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頑迷さとしてのヘーゲル

textes/批評/哲学・思想

written 2009/7/26


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 ヘーゲルの歴史哲学については、もう読んだものとずっと思ってきたのだが、最近になってそうではないことに気づいた。そこでようやく岩波文庫の上下2分冊『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)を買い、読み始めた。難解な部分はほとんどない、平易な文章だ。
 なぜ既に読んだものと思い込んでいたかというと、少なくとも20世紀以降、ヘーゲルの歴史観はすこぶる評判が悪く、近代西欧至上主義の独善的な考え方で非西洋世界を片付けてしまうそのやり口は、いろいろなところで批判されているからだ。日本でも吉本隆明氏が『アフリカ的段階について―史観の拡張』で批判的に取り上げていたが、これなどは相当遅れてきたほうだろう。
 悪名高いこの「歴史哲学」については、従って、読んでいなかったがある程度内容を知っていたのだと言える。
 が、実際読んでみて、本当にその頑迷さ・偏狭さが鼻につき、傲岸な西洋主義に怒りを抑えられず、むかむかと吐き気がするほどで、これ以上読み続けるのが辛いくらいだ。

 (アフリカの)黒人は自然のままの、まったく野蛮で奔放な人間です。かれらを正確にとらえようと思えば、あらゆる畏敬の念や共同精神や心情的なものをすてさらねばならない。
「歴史哲学講義」長谷川宏訳、岩波文庫

 ヘーゲルによればアフリカ世界は歴史として取り上げるに足らぬ、いわば問題外の世界であり、一方アジアは「自由を知らない」世界であって、「精神」の歴史においては少年時代。対してギリシャが青年期、ローマ帝国が壮年期で、ゲルマン世界が「完全な成熟」という意味での老年期。
 簡単に言ってしまえば、自分たちだけが正しく、他者(外部)は幼稚である。ヘーゲルの主張はこのように聞こえてしまう。

   インドの叙事詩に多くの形式的性質や着想や想像力の大きさ、生き生きとしたイメージや感覚、文体の美しさがあるからといって、それとホメロスの叙事詩を同列に扱うわけにはいかない。両者のあいだには内容上無限のへだたりがある。なにより、ホメロスでは、自由の概念を意識し、それを個々の人物に刻印しようとする理性への関心が本体をなしている。
同上

 西洋型の思考様式と根本的に異なる文脈で出現してくる外部の文芸も思想も、ヘーゲルにはお気に召さない。「きっぱりといわねばなりませんが、アジアの両国家には国家の本質をなす自由の概念の意識が欠けている」。
 確かにそうだろう。だがそれは当たり前だ。言語がちがうのである。近代西洋(ヘーゲル)が心酔している「自由」とか「精神」とかいう概念に相同するものが他言語にないのは、文化が違うからで、それらの文化ではそのような語を重視する必要がなかったというだけだ。
 G. W. F. ヘーゲル(1770-1831)のイメージについては、私の中では何となくベートーヴェン(1770-1827)と重なっている。
 宗教改革、啓蒙思想、フランス革命という「近代的」事件をとおして、プロテスタンティズムをもとにした個人主義的思考をベースに、資本主義経済社会が一気に花開きつつあった。
 ヘーゲルの言う「精神の自由」は、たぶんこうしたプロテスタント的世界観から出てきたものにすぎない。そして、それは「精神」の「同一性」という、近代西洋特有の神話に根ざしている。だからヘーゲルは、その哲学は本当は神なんか必要としていないのに、「歴史哲学」を語るのに神を擁護せざるを得ないのではないか。

「精神」なり「理性」が自ら動作するのは、あくまでもその時代・その文化圏の持つ「言語世界」の内部でしかない。言語による規定を無視して外に思考を飛び立たせるためには、狂気の力に頼るほかない。だから、思考世界を支配しているのは「精神」ではなくて「言語体系」の境界線や諸々の重力場である。「論理」を重視した近代西欧の言語体系は自然科学において成果をもたらし、圧倒的なテクノロジーを入手したが、哲学思考や文学的思考においては、単に所与の言語体系の内部を循環しているだけのように見える。
 我々はヘーゲルの語るような西欧至上主義を、度が過ぎた場合には偏狭なものと見なし、切り捨てられたアフリカや「未開」社会を軽蔑するような観点を否定する習慣をもっている。これは、そういう考え方が、こんにち広まっている「グローバルな社会構造」の倫理によって常識化されているからだ。つまり私たちもまた、ある種の言語力学の場に縛られているのであり、ヘーゲルら近代西欧人同様に、自身の思考はシステムに限界づけられている。

 ヘーゲルなどドイツ観念論や、ベートーヴェン的な「精神性」も、実はヘーゲルが「迷信」とさげすんでいるような外部世界の「神話」と同種の「神話」(近代的な「精神」の神話)を形成しているに過ぎないのではないか。クロード・レヴィ=ストロースがとりあげていく南北アメリカ「インディアン」の神話とおなじような神話の枠組みに、気むずかしげな近代西欧の「哲学者」たちもはめ込まれているだけなのではないか? 私は最近ではそのように考えるようになった。

 西洋の哲学者たちは、その後ヘーゲルを批判的に乗り越えることができたろうか?
 一方、私たちのような「外部世界」の人間なら、ヘーゲルという超大物哲学者を徹底的に批判することができるか?
 しかし現在の私には、『精神現象学』だの『論理学』だのといった著作に本格的に迫ることができるかというと、今のところ難しいだろう。私は「哲学」の学習者ですらない。
 なにしろヘーゲルは、頑丈な「体系」を作り上げた凄まじい巨人であることは確かだ。

 だが、「哲学」という枠組みじたい、西欧型の神話の産物に過ぎないかもしれないではないか?


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