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神話の森のいきものがかり

textes/批評/音楽

written 2009/7/5


 テレビアニメ「NARUTO -ナルト- 疾風伝」を子供と一緒に見ていたら、昨年春頃に流れていた「ブルーバード」というオープニング曲がいかにもキャッチ―でシンプルな短調曲で、なんかいいなあ、と思っていた。娘もすぐに口ずさんでしまうようになり、ひどく頭にこびりつくこのメロディーが、ずっと私からも離れなかった。
 調べてみると、「いきものがかり」の曲だった。最新の3rdアルバム「My song Your song」(2008)に入っているらしい。
 ということで、買ってみた。レンタルか、中古で済まそうと思ったのだが、思い切って新品を買ってしまった。が、これは失敗ではなかった。いい曲がたくさん並んでおり、3,000円分の価値はある。素直にいいアルバムだ。もう何度も聴き返している。

 いきものがかり、という名前は以前から知っており、どこかでちらりと曲を聴いたこともあったとは思うが、私は彼らはもっと若いと思っていた。ブレイクしたのはつい最近のことだからだ。  しかしメンバーの3人の年齢を調べてみると、

吉岡聖恵 (vo) 現在25歳 水野良樹 (g) 現在27歳 山下穂尊 (g) 現在27歳

 ということなので、思ったほど若いわけではない。路上ライブから始まり、インディーズで初アルバムを2003年に出し、やっと2006年にメジャーデビューだから、苦労して下積みしている。
 このようなバンド・ミュージックというものは、たとえば浜崎あゆみ、安室奈美恵、倖田來未、倉木麻衣などといった、テクノロジーに囲まれ産業の中心近くで活躍を始めた一連の音楽群とはひと味違う。もっと「素人」に近い(というかほぼ等しい)場所で好きな音楽を手作りしている感じだ。その暖かな響きは、コンピュータ・テクノロジーに育まれた産業的な音楽からはちょっと離れた親しみやすさがある。

 彼らの音楽のよさは何よりもメロディーの良さにある。主に水野良樹さんの手になるもののようだが、じっくりと作られたメロディーはつい口ずさみたくなるような、懐かしいものだ。コード進行も非常にオーソドックスながら、「切ない情緒」を適切に醸し出している。一方、アレンジはかなり凡庸だが、これはいろいろなアレンジャーが参加しているようだ。「プラネタリウム」や「帰りたくなったよ」のストリングス・アレンジはとても洗練された、見事なものではあるが。
 特徴的なのは吉岡さんのボーカル。
 その声は一本調子でヴィブラートがほとんどなく、ほぼ常にメゾフォルテ―フォルテくらいの間でつながっていくため、続けて聞くと少々うるさい面もあるが、バックのアレンジがあまり機械的でないおかげで、ちょっと救われている。
 大きく口を開け、はきはきと発音するので歌詞は非常に聴き取りやすい。強くメッセージを打ち出しているように聞こえ、BGMには向かない。気をとられてしまうのだ。
 彼女のヴォーカルはなんとなく、中学校のころ合唱コンクールで、うまい女子が一生懸命に歌っているようなイメージで、その全力ぶりに好感が持てる。
 そしてこの「中学生みたいな感じ」が「いきものがたり」のキーワードであり、それが若い層(中高生)に受けるポイントになっているのだ。

人生すごろくだべ。 (インディーズ時代の2ndアルバムのタイトル) いきものがかりの みなさんこんにつあー!! (ツアーのタイトル) 青空グラフィティ (6thシングルの曲名) きよえのとどろき (吉岡さんのブログのタイトル(既に終了?))

 いきものがかりを巡るボキャブラリーをランダムに並べてみた。
 ユーモアというか、照れ隠しのギャグのような、ちょっと韜晦を楽しむようなゆるい言語世界で、このへんはこんにち的な、若い感覚のラングというべきだろう。ストレートに何かを語ったり、意気込んだりするのは恥ずかしいから、とりあえず違和感のある言語記号の組み合わせを、あっけらかんと楽しんでいるふりをしてみせる。
 こうした世界観の中で紡がれてゆくのは、どうやら、「学園もの」の「青春」の神話であるようだ。

きらきらひかる青春ラインを 僕らは今 走り出すよ
そうさ ドラマティックな奇跡を探して 信じるまま 手を伸ばすよ
「青春ライン」水野良樹作詞・作曲

 とりあえず「ライン」という、この場には耳慣れない語を「青春」という恥ずかしい単語にくっつけることで、言葉の重さを回避する。さらに「ドラマティックな奇跡を探して」と、そんな「ドラマティックなこと普通あるわけないけど」という醒めた批評性を言外に忍ばせることで、フィクショナルなストーリーとして「青春」という幻想を逆に浮かび上がらせる。つまり、疑いながらも夢は夢として持続する。否定性なしには素朴なポエジーなど不可能である、ポエジーは否定しながら享受しなければならない、という都市文化の現在的水準を、このへんの言い回しは体現している。

悲しみの夜を越えて 僕らは歩き続ける
「プラネタリウム」水野良樹作詞・作曲 今止まった時を越えたら さらに一歩踏み出して あたし今 鳥になる
「かげぼうし」山下穂尊作詞・作曲 墜ちていくとわかっていた それでも光を追い続けていくよ
「ブルーバード」水野良樹作詞・作曲

 これらの「歩行|走行|飛翔」のイメージは、実際のところ極めて陳腐なものだ。こんにちのJ-POPの歌詞にも、「生きること」の暗喩としての「歩く」という語は非常に多く見られる。どこにでもある。とりあえず「歩きたい」「走り出す」などと言えば、なんとなく人生の核心を詩的に語っているような気がしてしまう。そのような言語空間を、私たちは(若者たちは)生きているわけだ。
 人生を旅になぞらえたりするのは、はるか昔からある比喩で、あまりにも古典的なものではある。しかし、1960年代の、サルトルに傍線を引いたりしていた日本の若者たちは、このように「人生」を語ったろうか? あるいは、求心的に道を追った芸術家や学者たちは、このように「歩く」ことを歌っただろうか?
 なんとなく違うような気がするのは、現在のJ-POPの歌詞に頻出している「歩行」イメージが、あまりにも漠然としていて、何を求めているのか・どこをどう進んでいこうというのかという具体性が、完全に隠蔽されているためであろう。
 今日の若者は、たぶん現実には「どこをどう歩くべきか」という重い思想性に関する限り、とても希薄になっていると思う。それは大人たちの言説空間があまりにも混沌としすぎていて、若者に確かな道を指し示すことなど誰にもできないという状況を受けているのだ。
 しかし、歩かなければならない。なんとなく若い連中はそう思っているのだろうか。
 むしろ、我々疲れた中年にとっては、人生なんて単純に「歩く」ようなものではなく、結局我々はどこにも行かないし、行けもしないのだという徒労感の方が強いのだが。

生きる大義(いみ)なんて本当に必要か? 鬼様が笑うぞ 壊していけ スタイル スタイル
「ブギウギ」水野良樹作詞・作曲

 ニヒリズムは基準点である。ニヒリズムだけが自明なのだ。
 そこから出発させられる若者たちは、軽やかに笑いながら、漠然と「歩く」しかないのかもしれない。

 いきものがかりに見られる「青春」という「走行」の神話を擁護しようという姿勢は、ノスタルジックなものだ。このノスタルジーは20代後半に差し掛かりながら、「生き物係」という「学級」的世界に止まろうとする退行性に初めから意図されている。
「学級」それは社会からは隔離された監獄(フーコー)であるが、「社会」の側が崩壊した今では、むしろそうした閉鎖空間だけが生きるに値する、懐かしい・暖かい世界として残っている。楳図かずおの『漂流教室』のように、学校の中だけにしか、もはや人間はいないのかもしれない。

あたし「I'm at miso soup」いつも創造的でいたいの(中略)
だから「I'm at miso soup」常に行動できてたいの(中略)
今日も「I'm at miso soup」温め過ぎには気をつけて
火傷しないくらいの方があたしの口には合うから
「@miso soup」山下穂尊作詞・作曲

 この思考は、村上龍さんあたりが、ぬるま湯的な日本を批判するのと、ちょうど反対の位置にある。むしろ、「学級」的なぬるま湯こそが、出発点だという発想。熱すぎても冷たすぎてもいけない、ほどよい温度に調節された、「守られた」場所からいつも始めたい。ぬくぬくとした、懐かしい場所。それはどこにあるのか? とりあえずは、「学校」という、遠い記憶の中に。
 だから、彼らは帰らなければならない。「歩いていく」のと同時に、逆方向に、「帰っていく」のである。この矛盾こそが、いきものがかりの神話の真実性を意味しているように思える。

帰りたくなったよ 君が待つ街へ(中略)
聞いて欲しい話があるよ 笑ってくれたら嬉しいな
「水野良樹」山下穂尊作詞・作曲

 同時に逆方向に向かって歩かなければならない「青春」の走行線は、「切ない」メロディー|コード進行に乗って、現代日本の神話の森を、無意識の環状線に沿ってぐるぐる回ることになりそうだ。
 
 とはいえ、私は彼らの若い、生き生きとしたメロディーをただぼんやりと楽しみ、口ずさんでみるだけだ。


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