最近読んだ本:フォイエルバッハ、フォークナーほか
textes/notes/雑記
written 2009/6/4
ここ2週間ほどで読んだ本についてメモ。文庫本ばっかり。
エルヴィン・パノフスキー『“象徴(シンボル)形式”としての遠近法』(木田元監修、川戸れい子・上村清雄訳、ちくま学芸文庫) スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東―革命とテロル』(長原豊・松本潤一郎訳、河出文庫) ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(中山元訳、ちくま学芸文庫) ジョルジュ・デュメジル『デュメジル・コレクション』(丸山静・前田耕作編、ちくま学芸文庫) スラヴォイ・ジジェクはおもしろい。が、ちょっとうさんくさく、頼りない。以前読んだ『否定的なもののもとへの滞留』(ちくま学芸文庫)はドイツ観念論を明快に批判したもので非常におもしろく、刺激的な傑作と思ったものだが・・・。
フーコー『わたしは花火師です』は平易なインタビューおよび講演だが、さすが、かっこいい。わたしは花火師なのです。わたしは自分の書物が地雷であり、爆発物の包みであると考えています・・・。そうであってほしいのです。シビれる!
私の音楽や文章も、花火や地雷であってほしかったのだが。
そう言えば、フォイエルバッハをまじめに読んだのは初めてだったかもしれない。『将来の哲学の根本命題―他2篇』は面白かった。この本はニーチェの『善悪の彼岸』のようにわかりやすく、刺激的だ。
同じく岩波文庫の『唯心論と唯物論』(船山信一訳)は、翻訳がひどい。生硬でへんにかっこつけた文体。マルクスが評価したことにより、フォイエルバッハと言えばマルクス主義者の愛読書の一つになってしまった経緯がある(ただし、フォイエルバッハ自身はマルクス思想と直接の関連性はない)が、この訳者もそんなところなのだろう。お堅くて、どこか党派的な物言いだ。妙なところで「そうだ」を連発しているが、英語でsoに当たるものか? 日本語として奇怪。おまけに名詞が複数形だからと言ってやたらに「諸○○」を繰り出してくるので、読んでいて気になって仕方がない。
アホか? こんな文章がかっこいいと思っているのだろうか? 日本語は複数形がないけど、文脈で単数か複数か判断できるのだ。あるいは、そもそもそんな判断が必要ないから、名詞の複数形がないのだ。この訳者にはまず、諸努力を惜しまずに諸日本語を諸勉強して諸常識を身につけてほしいしょ。
というわけで、この訳書はひどく読みづらいばかりか、すっかりうんざりさせられてしまった。まともな日本語による全面改訂版の出版をお願いします。
10年くらい前から民俗学・人類学・宗教学などが好きで、ときどき読んでいる。そうした本を読んでいるととりあえず「現代社会」から離脱することができるし、読後は逆に「現代社会」を人類学的観点から読み解き直すこともできるようになる。
この『デュメジル・コレクション(4冊セット)』は現在分売不可となっているので、4巻まとめて買うと7千円もするので度胸が必要だったが、実際読み始めると面白い(まだ2冊しか読んでない)。
インドからヨーロッパに至る広範囲な神話を比較し、インド=ヨーロッパ圏の古代文明に共通した文化構造を探る。そのことによって、ついには歴史以前の歴史にまでさかのぼり、できることならインド=ヨーロッパ語族の分裂前の「もともと」の文化の像さえをも想像してみたいという、壮大な試みである。
ただ非常に残念なことに、この訳本には訳注がない。比較宗教学の専門的な「学術論文」ではあるけれども、せっかくだからあまり知識のない一般読者にもある程度わかるよう、簡単な用語解説を加えてもらえたら、どんなによかったことだろう。
私自身、古代インドの神話や文化についてある程度は知っているものの、古代ローマやゾロアスター教についてはごく一般的な知識しかないし、ゲルマン神話に関してはヴァーグナーの楽劇でちょっと知っている程度であり、訳注なしにどんどん専門用語が出てくるこの本は、苦しいと感じた。
『デュメジル・コレクション』、おもしろいよと薦められる本ではあるが、訳注がないのであらかじめ古代のインド、ローマ、ゲルマン等の神話や社会をある程度押さえておくか、神話辞典みたいなものを用意しておいた方がよいと思う。
この本は確か高校生の頃、図書館から借りて読んだような。フォークナーは昔から何冊か読んでいるものの、読みにくく筋をたどりづらいという印象ばかり強く、あまり深く感銘を受けたことはなかった。が、私は若すぎたのだろう。
今回、岩波文庫の上下で『響きと怒り』をあらためて読み返し、感動をおぼえた。この長篇の前半は殊にわかりにくく、ジョイスばりの意識の流れの書法を採用して時間の入り乱れたモノローグが続くが、丁寧な訳注がついているおかげで、容易に理解することができた。訳注がなかったら、混乱してまた読み飛ばしてしまったかもしれない。
主人公の4人兄弟の、どん底に落ちていくかのような暗い運命が、その重さによって読者の心にのしかかる。何カ所か、私自身の経験と重なる部分もあって人ごととは思えず、そんな個人的理由もあってこの小説が傑出したものに感じられた。
この重さは、ドストエフスキーの文体や心理描写からにじみ出てくるあの重苦しさとは違う、もっと冷たく覚醒した重さだ。
フォークナーの他の小説も、もう一度読み返してみようか。
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