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空気のような、倉木麻衣

textes/notes/音楽

written 2009/4/25


 4月1日に起こった大惨事、「MacBookのハードディスククラッシュ」以来、単に環境を元に戻すにとどまらず、Mac OS X Leopardの導入とか、結局NASを購入して家中のMac/PCからこまめにバックアップするシステムを構築したりとか、妻が仕事を始めたのでそれ用にSUSE Linuxを入れていた6年前のノートPCにWindows XPを戻して環境を整えたりとか、このところコンピュータいじりに没頭していたのだった。
 そんなわけで今やすっかり作曲から遠ざかり、改めて作曲する気も全然起きなくなってしまった。・・・んー、音楽? もうどうでもいいよ、終わったんだよ、くらいの思いすら、ある。
 日々漫然としており、というか、仕事の方がさすがに忙しくて夜も休日もぐったりしていることもあるのだが、2006年以来の不活発な「停滞期」が、また私に訪れたのではないかと思っている。創造的な活動や深い思考がまとまらず、なんとなくぼんやりと過ごしてしまう。そんな枯渇の季節に移行したかもしれない・・・。

 最近急に、倉木麻衣に注目している。世間的にはもう「過去の人」なのだろうか。
 倉木麻衣という名前は昔から知っていたのだが、CDを聴くようになったのは「FUSE OF LOVE 」(2005)が最初だ。レンタルで借りてiTunesにとりこみ、ときどき聴くくらいだったが・・・。
 この音楽には当初「非常にオーソドックスなポップス」という印象しか持たなかった。彼女の声質もあるのだろうが、とても聴きやすく、BGMとして「聞き流す」のにもってこいだ。強い個性もメッセージもなく、キャッチ―だけれどすごく耳に残るものもない。だがこの「洗練された凡庸さ」には不思議な魅力があって、いつのまにかまた聞き返してしまっている。引き込まれるわけではないのに、なんとなくまた聴いてしまう。
 彼女の容姿はとても好きで、私の好みにほぼ完全に適合していると言っていいかもしれない。顔もけっこうかわいいし、狭い肩幅の感じとか髪型も魅力的だが、あまり豪華な衣装でキレイになってみるでもなく、ほとんどジーンズでスカート姿さえ珍しいくらい。そういう雰囲気も、余計な企図や衒いのない、さわやかなナチュラルさを感じさせて好印象だ。「普通」である。その音楽と同様に、完璧に陳腐といってよい普通さである。
 この普通な音楽は、POPとして上質なレベルに達している(彼女は作曲をしないので、背後にいる作曲者たちがそういう仕事ぶりなのだろう)が、何かを意図して攻めてくる感じがまるでない。空気のような透明さだ。突出するものは何もないのに、倉木麻衣というふわっとした存在が、空気に紛れ込んで部屋を満たし、意識下のレベルで心にわずかな快感を与えてくれているらしい。
 そういう意味では、これこそ「家具の音楽」(E. サティ)である。
 
 デビューした頃は宇多田ヒカルのコピーのように見られていたらしいが、根本的には全然にていない。ファースト・アルバムである「delicious way」(2000)を聴いてみると、確かにメロディー・ラインやビブラートの使い方に似た部分は時折あるものの、以後の音楽の歩みは宇多田ヒカルとは全く異なる方向に向かったようだ。
 宇多田ヒカルは周知のとおり才能あるクリエイターで、「全然かわいくない女性シンガーが広範に高い評価を勝ち得、いまだに持続させ続けている」というのは、「J-POP」シーンの中では実にたいしたことだ。もっとも私は、彼女の楽曲には何となく食傷気味で、あんまり変化がないような、マンネリっぽいものを感じてしまう。一人で作っているからある程度やむを得ないのかもしれないが、もうちょっと他者性への跳躍のようなものを期待してしまうのは、かわいそうなことだろうか。

 世間的には倉木麻衣は「とうに失脚した二流シンガー」というイメージになっているのだろうか? 強いインパクトはまるでない存在感/音楽なので、そういう印象があっても仕方ないだろうが、彼女自身、どうやらあんまりメディアに出ようなどともしないらしい。
 ただ自分の好きな歌だけを、背伸びもせず、格好もつけずに歌っている? だとしたら、なかなかに格好いいシンガーではないか。
 この空気のようなさりげなさは、生活にも、あらゆる音楽にも疲れてしまった、凡人の私には「ちょうどいい」感じだ。


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