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流転する世界

textes/notes/思想

written 2009/3/12


自然、世界、生命あるもの、心、言語、文化、音楽、すべては無窮動に変容し、水のように流れ続ける。万物は動くもの(ル・ムーヴァン)Le Mouvant であって、そこへ必死に棹さそうとするのが「知」という権力の要求だ。この西洋的な欲動、「知」はすべてを所有するために、時間の断面を切り取り、世界を図式に当てはめようとする。「知」は最終的に、人間を失うことになるだろう。なぜなら、個々の視点でも全体の視点でも、「人間」もまた、固定することのできない、絶えず変動する流動体なのだから。「秩序」をつきつめた場所に、人間は誰ひとり住むことはできない。
私たちは実際、様々なものを得てゆくが、それはあらゆるものを絶え間なく失って行くことと引き換えだ。そうして人は死にゆき、後に何も残さない。
はたして「人間」が滅びたあとに、「知」は残るのだろうか?

人体それ自体が、絶え間ない新陳代謝のうちにあり、死と誕生が繰り返される構造になっている。生命は非生命を取り込みながら、更新されてゆくのだから、何を生命と名付けるのかは結局難しい。「生命」という概念すらが、幻想なのかもしれない。

西洋型主知主義が目指した「絶対的な価値」の探求は、芸術の世界にもたくさんの果実をもたらしたということができるだろう。それら「恒久的な価値を産出する試み」は消えゆく時間に対する、必死の抵抗であったろう。が、この「社会」も「価値」も結局は幻想にすぎない。見せかけの秩序は、いつもアバンギャルドな流派によって打ち砕かれる。それでも人間社会は「共同幻想」の上にしか成り立たないのか。
絶対に確かな価値も意味も、この世にはありえない。「神」を認めない以上、我々は同一の認識に達することになるはずだ。

私たちは「音楽」を愛好し、そこで何か大きな意味があろうかと探して来たが、それら意味も、最後には失効し、消えてゆく運命にある。何も残りはしないし、結論が出るわけもない。近代西洋の芸術史は、他のあらゆるものと同様に、それ自体幻想だった。「現代音楽」がたどった運命は、「知」の権力によって幻想を解体しつつ、さらなるシビアさを求めようという思想と心中しようとする人々(スノッブ)の自己崩壊(前述のように、「知」は最後に人間を駆逐するのだ)のあえぎだし、経済構造という大義名分のもとに再構成されたポピュラー・ミュージックの方は、最初から自明なことながら、何か「意味」があるかのように見せかけつつも自己の空虚さを絶えず露呈し、私たちを絶望から救ってくれはしない。
このような虚無的認識に達してなお、私たちは生きることを義務づけられている。
なお、「音楽」は在り続ける。

私が自己のちっぽけな芸術創作の道程において見いだしたほぼ最終的な形態は、「残酷な小曲集」中の「ネウマ」等数曲にある。そこでは、もはや何も構築されない。旋律は絶えず生まれると共に消えてゆく。すべては流転し、そして最後には何も残らない。それは「知」の放棄にいたる、生のけなげな逃走劇だ。生きるためには、そうするほかないという締念。・・・認識の流転。・・・「意味」からの離脱。・・・
逆にいうと、変移し流転し続けることだけが、生命の証しである。
「存在」は絶えず消えてゆく。「存在」が生きるのではない。「存在」が存在として存在しうるのは束の間だけだ。生命は、「存在」が存在するようには存在しない。生命は「存在」を棄却してなお生き続ける、その残滓のなかにある。

私が発見したこの「流転するスタイル」は、結局のところ、ミニマル・ミュージックやモートン・フェルドマンや、マシン・ビートに乗ってシーケンスを執拗に繰り返す一部のポピュラー・ミュージックのような「大きな変化を伴わない単調な繰り返しに基づく、退屈な様式」と表裏を成していくのだろうと思う。

ところで流転そのものの動力とは、「必然」だろうか? 量子力学に抵抗し、アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と言った。しかし神を持たない我々にとって、神とはサイコロそのものでしかない。
世界はサイコロの目にしたがって、末期の踊りをつづけている。

何もかも退屈だ。


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