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逸脱2009

textes/notes/雑記

written 2009/1/6


どうやらまだ私の「病気」(鬱)は治っていないらしい。いつ治るのかさっぱりわからない。というより、そもそも「治る」ということがどういうことだったのかももう、よくわからない。「病気」って何なのかということも。
昨年終わりの方でいきなり応募した「作曲コンクール」は、落選だよなあと思いながらも、落選通知がなかなか到着しないという「間」がなんともいえない不安で、なかなかのストレスだったかもしれない。しかし今になって考えてみれば、あれで間違って入選していたら相当困っていたと思う。クラシック「現代音楽」の世界で立身しようなどとは夢にも思っていなかった(現在も)し、自分が熟成させつつある音楽観とその世界とは、ちょっと違うような気がするからだ。
最近もこの「ちょっと違う感じ」は続いており、クラシック/現代音楽系の作曲をしようとしても、どうもうまくいかない。自分で違和感を感じているのだ。私は、なにか、間違っている。

私が書こうとしていたのははたして「クラシック/現代音楽」だったのか?
バッハの模倣から入り、それを種々の要素と混ぜ合わせて、私は遊んできた。それは自分が興味あるものをどんどんミックスさせることで、「書くこと」の快楽を求めていたわけだった。
さらにそうした語法をさらに歪ませ、ある意味「現代的心性」にふさわしい音楽を構築したいと企んだ。一昨年くらいからはそんな「ねじれ」の表出を意図していたと思う。
ところが、あえて「現代音楽」に近づこうとすると、(意識的に)崩壊させた和声、多義的であろうとしてどんどん曖昧になる旋律書法などが絡み合って、むしろあまりおもしろくない音楽になっていくようだった。

現在の私は、近代から現代に至る西洋音楽を崇拝する気になれない。
とくに20世紀以降、「前衛」主義の作曲家たちは、確信犯的に聴衆を拒絶していった。ラジカルな音楽であろうとして、根本的な音楽の「強さ」を失って行った。
これは西洋的知性の末路ともいうべき感じだ。
ことにドイツ、フランス、イタリアといった「伝統ある」国々の音楽ほど腐敗の影が濃い。むしろ北欧や旧ソ連といった「周辺」の国々の音楽の方が、まだ「力」を持っているようだ。
これはたぶん、音楽に限らず、文明そのものの病弊に関する、極めて重大な問題を意味しているだろう。しかし、いまは追究したくない。
とりあえず、いまや西洋「現代音楽」なんてものを好んで聴いているのはごく一部の、自称知的スノッブだけなのではないか?
若い才能も、心がゆがんでなければみんなポピュラーミュージックの方に進むだろう。

いま、音楽の「力」を探したいなら、民族/民俗音楽の上質なCDを探したほうがよい。
それら非=西洋の音楽組織は、音楽とはなんだったかということを、古びた記憶の層から呼び戻してくれそうだし、耳慣れない構造性が他者としての、それ自体の輝きをまとってもいる。

私は近代以来の西洋音楽の枠組みを逸脱したいと思っている。
いまイメージしているのは、「現代」にふさわしい、あたらしい「民俗音楽」の構築だ。・・・と言ってしまうとあまりにもおおげさだが。
異国の伝統的な民族音楽がいかにすばらしいと言っても、(これまで西洋の音楽家たちがしてきたように)表面だけ真似したってなんの意味も無い。
そうではなく、みずからの深層の神話を発掘しなければならない。
記号の森を抜けて、いたましい亀裂を探らなければならない。

私は再び俗悪に還り、記号 signes の群れに身を埋めることとなるだろう。だが安易なことは考えていない。途方も無い私の企図は、誰の理解も支持も得られないかもしれない。その可能性はずいぶんあるようだ。何をやろうと、私はやはり一人なのか。

おそらく明日、私が待っていたソフトが到着する。


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