■ signes mobile ■


暮れゆく演歌の国で

textes/notes/雑記

written 2008/12/31


例年通り年末年始のこの時期はサイトのアクセスも少なく、知人のサイトもあまり更新がないし、さすがにひっそりとしている。
今年は紅白に出ないしょこたんさんだけが、(いつものように)続々とブログ更新を続けていて、妙な感じだ(と、思っていたら、彼女もこれからなにかに出演しに出かけるらしい)。

以前はまったく見なかったが、最近はNHK「紅白歌合戦」も知っているミュージシャンが出るので、ところどころ見ている。
紅白も若い世代を考慮すると演歌ばかりというわけにも行かず、かと言って演歌を減らしすぎると高齢者層(いまやどんどん増えて行く一方らしい)が怒りだすので難しい。が、そもそもNHKの幹部はたぶん若者はいないので、どうしても一線を越えられないのが現実だろう。
・・・このように把握するのが一般的なところであろうが、今年は不思議な感じにとらわれた。
なにもかも演歌に聴こえるのである。
若者たちの音楽も、演歌からは一見遠く離れているようでいて、その実、演歌的心情に合致した音楽的感受性を求めているにすぎないのではないだろうか? 日頃欧米のポップと日本のそれを比較してそこに決定的な断絶を感じるのは、底流にある演歌的心情のせいではないだろうか?
そのように俯瞰的に見られるようになったのは、歳のせいか。

浜崎あゆみは私も日本ポップ・シーンの中では最も好きなシンガーの一人であるが、ストロング・スタイルでギンギンなアレンジの曲を歌っているあいだは気づきにくいものの、ちょっとひといき入れようとしたとき、ぐっと「演歌」に近づく。
倖田來未もデビュー当時はアメリカでチャートインするような音楽性を持っていたが、年月とともにどんどん平易な、「日本人的凡庸さ」に帰って来た。
平井堅はもちろんだが、SMAP(彼らの人気の広汎性は、その音楽の演歌的情緒による)もポルノグラフィティも、みんなやっているのは表面だけ異なる演歌である。
演歌、つまり、ストレートだが激しすぎない心情の吐露と、それをとりまくぬるま湯的共感。そして、そんな心情的共感を前提とした、「寄り合い」的な世間感覚。日本では、ハードロックさえ演歌になってしまう。
その心はどこまでも乾燥しない。きっと乾きの認識を拒絶する社会構造なのだ。これは湿った気候と孤立した国土に由来するのだろうか。

そんななかで、東方神起の音楽はちがっている。かつて倖田來未と組んだ「Last Angel」を聴いて、「あ、これは何か違うな」、かっこいいなと思った。・・・すると彼らは韓国人だった。なるほど、彼らのバックには演歌がないのである。その、どこか異質な感じが、かっこよく感じられたのだった。

私も自分の音楽をもっとドライにしたいとよく思うのだが、なかなかそうはならない。私もまた、この演歌の国の住人に過ぎないのだった。
この、ぬるま湯的共同体としての「国」も、あちこち壊れて来ている。この「国」は滅びたとき「演歌」を残すのだろうか? まあ、まちは壊れて行っても、人間は死なない。生はつづく。たとえ死にたいときでも。

みなさんの生に、幸運な年が訪れますように。


<feeedback>

■ この記事はいかがでしたか?

まあまあよいと思った
とてもよいと思った

この記事へのコメント


signes mobile

通常版(PC用)トップページ

2229008