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聖と俗と、カーニバル

textes/notes/思想

written 2008/7/21


中世からルネサンス時代(近世)の西欧音楽を聴きながら、そこに確然と存在する「教会音楽」と「世俗音楽」の違いについて考えていた。
「西洋音楽」なるものが「クラシック音楽」として特別に発展してきたのは、たぶん「教会音楽」の伝統のおかげであろう。
「世俗音楽」の作者たちは、自ら聴衆とともに歌い、踊り、楽しむため、音楽特有の「一回性」のなかで満足していた。だから、きちんと記譜され残っているものは少ない。このへんは他の文化圏の民衆音楽と変わらない。
一方「教会音楽」は、書かれたもの=エクリチュールとしてことさらに規範化された。中世初期の時代からすでにこの「エクリチュールという特権」は光り輝いている。教会音楽の作者たちはさらに、エクリチュールで戯れることを始め、聖歌に尾ひれをつけ、さらに「対位法」という技法へと突き進む。中でも中世末期に出現したギヨーム・ド・マショー Guillaume de Machaut (1300?-1377) の音楽は強烈だ。それは異様なエクリチュールの迷路と化した音楽である。こんな音楽は他国のどこを探しても見つかるまい。(もっとも、マショーにかかっては、教会音楽も世俗音楽もあまり変わらないのだが。)
教会音楽という制度によって、音楽を書く専門家が出現し、彼らは演奏者からは隔たった自室に閉じこもり、稠密なエクリチュールを編み出すことに没頭したわけだ。

(ところで西洋中世・近世音楽でいうところの「世俗音楽」とは、一般に宮廷での音楽を言うのであって、本当の民衆の音楽のことではない。本当の民衆の音楽というのは、ほとんど残っていない。彼らの音楽はおおむね書かれていない。ほんらいの音楽がそうであるように、そのときそのときに一回きりのものであって、時間が過ぎてゆくのと共に、たちまち消え去ってゆくものなのだ。)

西欧のキリスト教(カトリシズム)を核とした社会制度は、言うまでもなく、教会を格別な権力として設定した。
支配者=王権が巧みにこの教会権力を利用した、というのが通説になっているが、しかし考えてみれば事情はなかなか複雑そうである。
最近図書館から借りて読んだ、クリストファー・ブロック著『 中世社会の構造 』(松田隆美訳、法政大学出版局(りぶらりあ選書:現在絶版らしい)はなかなか面白かった。
この本では、「霊的」ヒエラルキーを司る教会と、王権を頂点とする世俗的序列というふたつの階梯が、中世ヨーロッパの中心にあるわけだが、この二つは実際にはとても複雑に絡み合っているという視点で叙述されている。
当時、教会や君主が絶対的権力であって、民衆はそれらに逆らおうなどと思わなかったという点、「民主教育」を受けた私たちには遠い世界のようだが、キリスト教においては(イスラム教もそうだが)、そもそも絶対的な他者にあらゆる権力は移譲されてしまっているのであり、そういう思想に馴染まない野放図な「自由人」である現代人には共感し難いものがあっても仕方がない。

しかし、一方の「民衆」はそういう思想を心にしみ込ませながらも、時として集団で爆発する。
カーニバルの瞬間だ。
カーニバルは直接権力に対抗するものではないが、序列を転倒させ、日常的な言語(ランガージュ)を一気に崩壊させるという、興奮に満ちた場である。
フリオ・カロ・バロッハ著『カーニバル―その歴史的・文化的考察 (叢書・ウニベルシタス)』(佐々木孝訳、法政大学出版局:これまた絶版らしい)もとても面白かった。民衆が半(民俗)宗教的意味に則りながらも、秘められた暴力や残虐さを爆発させる異様なカーニバルの情景を、この本は生き生きと語ってくれる。

こんにち、人はあまり群れることがない。
群れることができなくなったとき、人は私的な、絶望的なカーニバルを実行する他ない。すると無差別殺戮に至る。社会参加のための、それは絶望的な、捨て身のコミュニケーションなのである。
もっとも、現在多くの人はインターネットという匿名の世界の中で、匿名をいいことに群れる愉しみを享受しているらしい。彼らは群れ、ののしり、常に集団で誰かを血祭りに上げようとたくらんでいる。これはこれでカーニバル的ではある。だが、残念なのはすべてがネットを通した記号世界のコミュニケーションにすぎないため、ふと気づいてみると、やっぱり自分は孤独なのである。そのことに気づいてしまうという恐怖が背後から迫ってくる。

では現代ではカーニバル=民衆の爆発は不可能なのだろうか。
もし戦争が始まったら、それは民衆にとってもひとつのカーニバルであるかもしれない。だから、生死をかけたぎりぎりの極限状況という実態をしらない誰かは、潜在的に戦争を望んでいるだろう。
現実の戦争は過剰な制度に基づいて演じられるのだが、カーニバルは消尽に他ならない。
そこでは制度も、知性も、すなわち権力を巡るあらゆる関係性も、血なまぐさい騒ぎのなかで消尽されるのだ。
群れる人々のあいだでは、いつも血の臭いが漂う。

あるいはあえて「人間」を捨象して、聖と俗をめぐる構造分析を楽しんでみるのも面白いかもしれない。
が、「人間」を捨象してしまうと、この血なまぐさい興奮、衝撃的な転倒はつかみづらくなってしまう。

私は「Partita」の連作を書きながら、世俗性、民衆性というものをいろいろ考えてきた。
今書いているのは第5曲だが、最初6曲書こうと思っていたものの、体力的な限界を感じたので5曲で終わらせようと考えている。
これは民衆の盲目的なカーニバル、潜在意識のなかから立ちあらわれる残虐性、そして狂気や血なまぐささを感じさせる場所へ旅するための音楽となるはずだ。・・・


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