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自己同一性について

textes/思考

written 2008/6/7


個人が自然に生きている時、その意識は刻々と変わってゆく。身体組織でさえ、厳密に言うと刻々と変容しているはずであり、そこでは元来、同一性などという問題が発生してくる余裕はない。
このような自己の流動性については、デイヴィッド・ヒュームが刺激的な語り口で語っている。

人間とは、想いも及ばない速さで次々に継起する・久遠の流転と動きの裡にある・様々な知覚の束ないし集合に過ぎない。

デイヴィド・ヒューム『人性論』(1739-40) 大槻春彦訳、岩波文庫

ヒュームが客観的に自明なものである「同一性」を、詭弁を弄して否定した、と非難することはたやすい。しかし「自明」だとされるこの「同一性」とは何なのだろうか。

他者がなければ、自己は自己の同一性を意識する必要は全くない。もっと言えば、自己が自己と「同一」である必要はない。
「お前はお前自身であれ」
この命令を至上の位相から下すのは、他者である。
いま私の前に他者が立ちあらわれ、その強烈な視線のもとで、私は私自身となることを(同一性に環帰することを)余儀なくされるのだ。
もちろん逆に言えば、私も他者に対し、「お前はお前自身であれ」と命じていることになろう。同一性の命令が、人と人とのあいだで交換され、そのような力場から「自己同一性」という像 image が生成されるわけだ。

ルネ・デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」というテーゼは、じっさいにはこれらの「我」が常に同一であるという前提を欠くことができない。すなわち、この言表のかげには本来、他者からの視線が秘められているのであって、ここでの「我」はすでに「お前自身であれ」という命令に服従している状態なのである。ほんとうは思惟している意識に見落とされながらも、思惟していない自己というものも存在しているはずで、また、その思惟自体が常に単一の主体であるとは限らないはずだ。他者からの視線を抜きにして生成しえない「自己同一性」をデカルトは不問に付してしまった。

さて、他者による「同一性命令」はその後、さらに「性格化」や「個性化」など、いわば言説化が可能な状態へと、「個人」を導いていく。
このように固定され、言語化され、記号と化した「個人」に生まれ変わることによって始めて、ヒトは社会の内部に組み込まれ、利用され、言及され、裁かれることになるだろう。ヒトはひとかたまりのカオスとして存在を始めるが、他者たちとの関係性のさなかで「自己」となり、その上で社会という言語体系にとりこまれる。
一方では、同一性の枠組みをふりほどき、社会の外部へ、言説の届かない彼方へと逃走したいという、誰もが奥底に保持している願望は、他者によって拒絶され、いつも抑圧されている。
たとえば芸術と呼ばれる領域の中で、このような深層の願望を解き放つことができるか? 私が試みようとしているのは、最終的には、このことなのかもしれない。


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