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倖田來未「Kingdom」

textes/批評/音楽

written 2008/1/31


しっかり予約して倖田來未のニュー・アルバムを発売日(1月30日)に手に入れてしまった。
過去に書いたように「BEST〜second session〜」(2006)以後、つまり一気に売れて以降の彼女の音楽にはあまり期待していないのだが、一応チェック。
新譜「Kingdom」早速ひととおり聴いたが、悪くはない。が、すごくよい曲、強く印象に残る曲もあまりない。割といいのは既にシングルで出ている曲で、他はぱっとしない。というか手抜きっぽい楽曲もある。
こうしてみると倖田來未の最良の作品は、1番最初の「Affection」(2002)である。あれは強いメロディーに満ちた、いいアルバムだった。倖田來未の歌唱力は現在の方が上かもしれないが、音楽性全体は初期の頃がよかった。
初期において彼女に楽曲を多く提供していた作曲家のうち、私は殊に渡辺未来氏(たとえばButterfly、COLOR OF SOUL、乱反射、selfish、あと浜崎あゆみのis this LOVE?など)あたりの作品が好きだった。彼や原一博氏などの作曲陣によるちょっと暗めの「かっこいい」楽曲・派手なアレンジが倖田來未の声質・歌唱法にマッチして強靭な印象をもたらしていた。「BEST〜first things〜」(2005)の大ヒットは、そうした音楽のリビドーの強度が、ちょっと「エロい」ジャケットによるパッケージングと結びついて生まれたものだ。
倖田來未のために用意した渡辺未来氏の楽曲は、今のところ「人魚姫」が最後のようで、残念なことに今回のアルバムにはない。
彼女の必殺技とするべきバラードの出来も、今回は今ひとつ。かろうじて「愛証」がかつてのストレートにエモーショナルな高揚を思い出させてくれるが。

作曲家を選出するのは「アーティスト」やプロデューサー、レコード会社らが絡みあって決定しているのではないかと思っているが、ヒットして以来の倖田來未は、より「泥臭くない、ソフィスティケートされた今風のダンサブルさ」、あるいは「かわいい系ポップチューン」を追い求めている。
ヒットし始めた頃に彼女は「エロかっこいい」路線ばかりではない自分を今後アピールしていく、と述べていたので、その通り実行されたことになるが、かつての音楽性を愛好していた向きには肩すかしを食らったような気持ちもあるだろう。

ヒット以後の倖田來未は、「ふつうのかわいい女の子」としての自分をアピールするのが中心的欲求となっているようだ。この姿勢は、男性に対してどうこういうよりも、仲の良い若い女性たちが
「あ、かわいいね!」
「ほんと? ありがとう!」
と賞賛し合って喜んでいるような、そのような女性同士の盛り上がりをめざしているように思える。日本の音楽産業の事情からいってこれは合理的である。女性のファン層をしっかりつかむ方が、売り上げの維持には好都合と思われる。この際男はどうでもいいのだ。

ネット上で倖田來未をめぐる言説をぼんやり眺めていると、彼女に対しては好き嫌いが激しく、嫌いだという人にとってはまずあのキャラクターが問題なのだろうが、これは圧倒的に男性が多いのではないか。統計データを見たことなどないので断言はできないが。
倖田來未嫌い派の男たちは、歓声をあげるファンの女の子たちのあいだでただ浮かれているように見える彼女を、男には魅力のない、しょうもないお調子者と見ている。これは音楽への批評である以前に、「キャラクター」への批判であり、現在の日本の音楽産業および「リスナー」にとっては、音楽など二の次だという事実を暴露している。

ポピュラー系音楽では倖田來未も宇多田ヒカルもジャニーズも、みんな「アーティスト」という漠然とした呼び方をしており、これはアメリカに由来しているようなのだが、自分で曲を作るクリエイターとしての宇多田ヒカルやBONNY PINKらと、本来純粋な「歌い手」であるべき浜崎あゆみや倖田來未らを同列に論じるのはおかしいような気がする。
作曲・アレンジをひとにやってもらっている場合、音楽的イメージの大半はそれらの出来に左右されるのだ。

倖田來未の、どこかから借りてきたと思われる技巧をつぎはぎした豪奢な歌唱技術と、歌の内容の圧倒的「からっぽさ」の組み合わせを、私は逆説的に評価している。それは魅惑的ながらくたであり、法悦の虚空である。
この空虚感が現代日本文化の行く先を示すめだった表徴 signe たりえているからだ。
そう思って聴けば、「Kingdom」悪くない。かつてはエモーショナルな炸裂が魅力だったが、(もしかしたらマンネリ化によって)それすら失いつつある空虚さがディスクを浸し、ポップ文化の絶望および、商業機械の不気味なきしみを体現しているのだ。

ところで、「エロさ」の表出には暗い情念の、欲望の、泥まみれの解放が必要なのだが、泥臭さを抹消しつつある現在の彼女には、もはや「エロさ」はない。
最初の頃のがよくて、後年の作品はだんだんつまらなくなってくるというのは、宇多田ヒカルもそうだし、マライア・キャリーなんかもそうだった。ポピュラーミュージックの世界にはそういう落とし穴もあるのだろう。
クラシック音楽の作曲家の作品は、おおむね「後のものほどよい」と言えなくもない。それに比べると、ポピュラーミュージックには、「人間的自由さ」が欠けているのかもしれないなと思う。


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