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抽象的なゲームを超えて

textes/思考

written 2008/1/21


バッハのオルガン曲等のフーガから入ってきた私たちは忘れがちなことだが、西洋ポリフォニーの起源はあくまでも歌詞を持つ声楽なのである。 それぞれ歌詞を歌いながら、少しずつずれたり重なったりしながら、複数の声部があらわれてくる。
歌詞があることによって、この「ずれ」は器楽の場合よりもいっそう単純明快だ。
もともとは坊主のお経のようなものだったと思われる「グレゴリオ聖歌」にはじまり、西洋教会音楽は徐々に「言葉のタイミングをずらしながらの調和」に興味を持つようになった。他者たち、あるいは群衆によってそれぞれに発せられる言葉が、音楽的に融合し合うという快楽を、ルネサンス・ポリリフォニーは実現させた。一方ではマショーのシャンソンに見るような、テクストの解体という秘術も中世末期にすでにありえたのだが、この場合意味の頭上で鳴り響く美の探求といった様相を呈していたのかもしれない。いずれにせよ、これらの時代の対位法技法の意図は根本的に中世的な宗教観・世界観に根ざしていると思う。

器楽のジャンルが飛躍的に発達したのはバロック以降だったようだが、この「器楽の台頭」が実際のところ、西洋音楽の「近代化」の鍵を握っていたように思える。
器楽(鍵盤楽器など)に移行ことにより、一気に対位法は、いや音楽は、「抽象的なゲーム」になる。
このゲームは17世紀以降「近代的知」の権力化によってはじめて可能なものだ。
一気に整った「調性音楽」の基盤はほとんどニュートン力学のようなものである。この力学的な場が、音楽全般を操作するための源となる。
そして楽曲には明確な「主題」が登場し、これがいかに反復され、あるいは展開されるかが問われるようになった。この展開技法は抽象的思考によって為され、今や楽曲の構造性が注目される。そしてここではじめて、フーガが可能になり、のちにソナタ形式が可能になったのだ。
「近代」の出現によって、「我思う故に我あり」と絶えず主張しつづける主体が現前し、この主体は権力を欲望し、対象を抽象化することで一切を言説の素材へと変容させ、思考や「作品」を「構築」しようともくろむようになる。
今や芸術も、文学も、哲学も、音楽も、知的権力に向かって限りなく肉迫するだろう。

私はいま、近代的なものに対して批判的な場所に立とうとしている。
否定しようとしているのは、主に主題の扱いを巡る知のゲーム(まさに世のクラシック愛好家たちが尊重しているもの!)、ソナタ的構築物、さらにはフーガ(私自身のルーツ!)。そして調性音楽と、実はそれに立脚しているに過ぎない十二音音楽、セリー主義など。
なぜ批判するのか?
私はすべてのものから逃がれようとしているからだ。
すべての権力は腐敗するからだ。
言説の軛から逃れ、始源の自由に到達したいからだ。
だがこの逃亡は私自身にとってまっさきに「残酷」でなければならない。
それは抽象的思考ではない、器官なき身体としての音楽を取り戻すための儀式であるかもしれない。
まずは残酷きわまりない破壊が、私の上に降り注ぐだろう。


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