生きながら書くことはできない
textes/notes/雑記
written 2007/12/28
「残酷な小曲集」用のピアノ曲「トッカータ」が昨日完成し、そのままアップした。
これで5曲が完成したが、今回のは自分でもちょっと気に入っている。標題にある「残酷」の私なりのイメージに近づいてきていると思う。ただしそれを人がどう受け取るかは予測できないし、もうあまり期待もしないようにしている。
8月から9月にかけて「作曲を放棄するかどうか」ということも検討していたのだが、結局のところ、書いている。今は。
ルネサンス音楽にヒントを得て意欲が湧いてしまった形なのだが、従来よりもひっそりと・好き勝手に書いていこうと考えてはいる。
問題なのは「自分で書いたもの」をいつまでも「自分自身」に結びつけておこうと抵抗し、余計なことを気にしたり一喜一憂したりすることだ。
すでに書かれてしまったものは既に私とは別個に存在する「他者」であって、そこに反映されている感情や企図は、もはや現在の私自身のものではない。私とは、「想いも及ばない速さで次々に継起する・久遠の流転と動きとの裡にある・様々な近くの束ないし集合に過ぎない」(デヴィッド・ヒューム『人性論』大槻春彦訳、岩波文庫)。
すべては無常に過ぎてゆく。過ぎてゆく瞬間のなかに身を潜めること、それが「書くこと」である。
以前私は「書くこととは、生きるとは別の仕方で存在することだ」と書いた。
言い方を変えるなら、生きることに執着するなら、書くことはできない。書くことに執着するなら、生きることを捨てなければならない。生きていては書くことなどできないのだ。(この不可能性は、もしやモーリス・ブランショの小説が示すテーマを示唆してはいないか。)
だがこれは極論だ。我々はいつもどっちつかずの中間地点をふらついており、書きながら生きているのであって、そうした日々の意味は何なのかと絶え間ない問いにさらされる。だからみんな、中途半端で終ってしまうのだ。
私の場合困ってしまうのは、ネット生活というものが執拗に私を「生きさせようとする」ことだ。ネットは私を書くことから逸らせ、無用な言表を重ねることで事実上の無為な生ともいうべき沈滞に追い込んでしまう。
ネットから逃げる、それも手だろう。この世界はもう、私にとって居心地のいい場所ではない。
しかしそうなると、「書かれたもの」を放ってゆく場所がなくなってしまうのだ。
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