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非=近代へ

textes/notes/音楽

written 2007/11/18


多くの「クラシック愛好家」が愛聴しているのは18−19世紀くらいの、たかだか200年間程度栄えた「調性音楽」に過ぎない。
20世紀に冒険心旺盛な作曲家たちが、西欧近代の「調性システム」の破壊を始めると、人々は当惑し、憤激し、「現代音楽は間違った方向に進んでいる!」などと絶叫するのだった。
20世紀の、殊に後半の「実験音楽」についてはさておいて、これら「愛好家」たちが必死で守ろうとしてきた「調性システム」とは何だったのか。 そして、調性音楽という西洋音楽の一時期の一システムが世界音楽に君臨し、支配しているかのような幻想を「クラシック愛好家」たちが大切にしているのは何故なのか。

「調性システム」をじゅうぶんに自然なシステムだと考えることは、おそらく幻想に過ぎない。調性システムは、人工的な自然である。
この作為的なシステムはバロック時代から古典期にかけて確立した。つまり「近代」の出現とともに現れた。

私は最近「近代以前」の西洋音楽、殊にルネサンス時代のそれを愛聴している。
近代「以前」と「以後」を区別しているのは明確な調性だけではない。調性システムの確立と同時に、音楽の内容に関わる根本的な部分が変化したのだと思われる。
それは「音楽思考」そのものの変容である。
ここでミシェル・フーコーの『言葉と物』を見てみよう。

ルネッサンス時代は、言語(ランガージュ)がそこにあるという生のままの事実のまえで足をとめた。(...中略...) 17世紀以降欠落するのは、このずっしりとした、そして人を当惑させずにはおかぬ、言語(ランガージュ)の実在にほかならない。(...中略...)だが、それでいて言語は機能している。(...中略...)言語はみずからの表象的役割のなかに完全に位置しており、正確にそこにとどまり、結局はそこで尽きはてる。言語はもはや表象以外に場をもたず、表象のなかでしか、すなわち表象がしつらえる力をもつあの空洞のなかでしか、価値をもたないのだ。 (上掲書、渡辺一民・佐々木明訳 新潮社刊)

ここで「言語」を「音楽の実体的諸要素/音」と読み替えてみるといい。近代音楽に何が起きたのか見えてくる。

調性システム自体は、主音/主和音/主調に絶えず向かおうとする強烈な重力を音楽に与えた。奇妙なことにこの重力は、書く者=主体の心象に向かう重力をも派生させたのだった。
以後、音楽は(他の西洋近代芸術と同様)個人における心情の表出、あるいは表象による構造の組み立て、表象の演戯といったものになるだろう。
音やメロディやリズムは、世界とともに、かつて「ただそこにあった」。ルネサンスの音楽家たちはただ、音に出会い、音楽の諸要素に向き合い、そこで美を発見しようと努めただけだった。
近代以降は、音そのものではなく、動機(主題)、リズム、和声等の「記号(シーニュ)」が何らかの表象と直接結びつき、それら表象の世界図を芸術家は描き出すようになったのだ。
この時点から音の処理は「修辞法(レトリック)」の技巧そのものとなってしまう。「クラシック」を象徴する「オーケストラ」。そのオーケストラ書法こそ、レトリックそのものに他ならない。
近代音楽は次第に、作曲家の主体性という閉鎖空間の中で窒息しそうになり、20世紀初頭になってドビュッシーやモダニストたちが、やむにやまれない衝動から、「近代システム」の破壊を試みるようになる。

最近特に、私はオーソドックスな調性音楽を聴くと鬱陶しくて吐き気がしてくるようになってしまった。このような気分を分かち合える人にはなかなか巡り会えないのだが、ともかく非=近代という方向性に、私は余生の音楽的営みのすべてを賭けることになるだろう。


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