カメラを持ったサルたち
textes/notes/雑記
written 2007/6/23
愛知から義妹夫婦が遊びにきて、せっかく北海道に来たのだから旭川の有名な「旭山動物園」を見たいという。
旭山動物園は有名になってしまって以来やたらと人気で、人ごみが嫌いな私たちはふだん行こうなどと思わないのだが、なりゆきで今日、家族3人と義妹夫婦ででかけてきた。
朝からの雨降りが幸いしてさほど混んではいなかった。といっても、他の道内の観光施設よりもずっと人が多い。
人だかりが厭なので隙間を縫うようにせかせかと歩いていたが、檻の中の動物にカメラ(デジカメやカメラ付携帯電話含む)を向けている人がずいぶん多いのに気づいた。なんだかみんな楽しそうな顔して、一生懸命写真を撮っている。海外の方から見て「日本人はなぜみんな写真ばかり撮って歩くのか」と疑問がられるそうだが、今日の私はハナから異邦人気分なので、まさにこの群がる日本人観光客たちは、「カメラを持ったサルたち」にしか見えなかった。
以前私自身、帰ってからプリントアウトした写真を元に水彩などの絵を作成するために、動物園の動物や景色を撮って歩いた事はある。
娘が生まれてから、いくつかの幼稚園行事などでも写真は撮った。が、結局撮りまくってもあとで整理するのが面倒な気がするので最近は撮らない。だいたい、運動会でカメラなどにかかっていると、肝心の「競技を見る」ということが難しく、これでは本末転倒だなと思い、厭になった。
しかし、世の人々は子どもの運動会で、その走る姿を撮るべくデジカメやビデオカメラを懸命にかまえており、そのような「記録する」という行事を、カメラ市場ではとうぜん多いに推奨するし、世間でも当たり前の欲求としてとおっているようだ。
ほんとうに「写真が好き」という人たちはともかく、そうでもないけどやたらと写真を撮りまくるこれらの人々は、どんな衝動に駆られているのだろう。
そうやって撮った写真やビデオを、人はあとでちゃんと繰り返し見たりしているのだろうか。私の経験では、結局撮っただけで終わってしまい、あとで一度も見ずに終わったり、せいぜい一度、ちらりと見ただけで満足し、その後はどこに行ったかさえわからない・・・そんな結末のほうが圧倒的に多かったのだが。
だいたい、わざわざ動物園に来て動物の写真なんぞ撮ってどうするのだろう。
動物の写真を見たいのなら、プロが撮った写真の載った本を買ってきた方がはるかにいいに決まっているし、探せばネットで無料でいくらでも見る事ができるだろう。
考えてみれば、「カメラを持ったサルたち」(別に軽蔑して言っている訳ではない)にとって、その写真を後でどうするかなんてことはどうでもいいのであって、ただ「写真を撮る」というその行為自体に目的があるのではないか。
日常のなかで泡沫のように現れては消えてゆく諸場面、そのうちの特別に「楽しい」と価値づける事のできる「場面」を「写真」という「カタチ」に刻み込む。
刻むというその身振り自体が重要なのではないか。
はかなく消えてゆくはずの諸事象を「写真」というカタチに転写するということは、ふだん人間の力ではどうすることもできない「時間」の圧倒的な力にあらがい、やがて消失し忘却されてゆくことから事象を救い出し、「写真」という個人が所有しうるものへ変換してやろうという行動。
この行動は、「ものを書く」という行動とも通じている。意味も無く消えてゆき忘却されてゆく「意識」の諸局面を意味あるものとして表出しなおし、エクリチュールとしてあらたに存在させようという要求は、いわば死を隠蔽し、諸事象の不可解さやあらがえない時間の流れを隠蔽し、取得した経験のひとコマを自らの所有物としてあらたに存在させようという要求なのかもしれない。
こんにちの日本の「大衆」の一般倫理の一角は、このように死や深層を隠蔽しようという、共有された暗黙の意向によく現れている。
であれば、デジカメやカメラ付携帯電話といったアイテムは、この大衆倫理を支えている制度的な装置のひとつなのだ。
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