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書かれたものと見えない「持続」

textes/notes/思想

written 2007/5/25


ブログでも「ホームページ」でもSNSの日記でもいいが、通常私たちがネットにまとまった文章を「書き込む」とき、その文章を断片としてではなく、それを書くに至るまでに書き綴ってきたすべての文章の累積・あるいは「私」という持続における過去の記憶すべてという「全体」の一部として、1ページに含まれるほんの数行だけでなく、そうした背後の全体をも認識してほしいと願っている。
というより、私という持続のさなかにあって私はあくまでも書いているのであって、その持続を掌握することなしに、ほんの数行の「切り離された」断片を受け取ることなどありえない。私は旧来の友人に向けて今日も書いているのであり、断片だけを受け取って揚げ足をとろうと身構えている「通りすがりの他者」など、ハナから相手になどしていない。私は私の書いた膨大な文章のすべてを受け入れた上で判断してくれることを、書き手の当然の権利として要求する。
結局のところ、このような「勘違い」の上でだけ、私は今日も書くことが可能なのだ。
「持続する主体」とは、自己に向けられた意識がいだく幻想にすぎないのかもしれず、他者とは共有しえない自己の記憶の累積の上に成り立っているのかもしれない。
私がここにこうして持続し続けているという事実に注視しているのは自己のみであって、誰もそれに最後までつきあおうなどとは考えない。
ことにネットの世界では、個人の繰り言などにめぐりあうのは、たいがい検索エンジンから漂着してきたユニークなビジターたちであり、彼らが「 一個人の書いたもの」という迷宮に固執して深入りすることなどほとんどありえない。従って、ほんの数行の文から、評価は決定されるのだ。

だが考えてみれば、これはネットに限らず当たり前のことであって、作品は常に作者を離れ、自立した様態として把握される。ただ、私たちは「日記」を書くとき、それは明らかに「作品」を書いているのとは事情が違うのだが、ネットという環境はむしろ、個々の「書かれたもの」を、すべて細分化してしまい、そうすることで万物の「作品化」(ないし製品化)を一挙に成し遂げてしまう。書いた者の意図や「持続」からはとおくはなれた場所で。

ほんとうを言えば、アントナン・アルトーの言うように「すべて書かれたものは豚のように不潔だ」(清水徹訳、「神経の秤」〜現代思潮社『神経の秤・冥府の臍』所収)。さらにフロイトをあえて援用するなら、書かれたものが糞便であるとする場合、それは「世界」への、自己からの贈与である。贈与は神聖な儀式手段だから、そこで書かれたもの[エクリチュール]は浄化され、書いた者/不浄な者は捨象されることになろう。

私たちが持っている「芸術」なるものについての認識は、あくまでも近代西洋の思考の枠を超えることができない。それはたぶん、私たちがいつか「芸術」などという言葉をきれいさっぱり捨てることができるようになる日までは不可能なのかもしれない。
この「近代芸術」の枠内では、「芸術家」という一個の持続が尊重され、注視されなければならない。こうした尺度を未だに捨てることのできない私たちは、書かれたもの[エクリチュール]を、書いた者という主体を想定しながら把握せよという無言の命令を、あいもかわらず受け手たちに強いようとしている。
「私」という持続の軌跡を追いながら、私の書いたものを解読してください。
たとえば、私の音楽を批評しようというのなら、ポピュラーミュージックに根ざした習作「Cheep Angel (1997)」あたりから始めたとして、学習の痕跡として記された「前奏曲とフーガ(2000)」、作曲上の方法論の転換期における無数の試みのひとつ「忘れられた歌」などを経て、曲折のなかから生み出されてきたものとして「Pulse」を解読してください。
そのような持続という全体を照らし、一貫して保持されたものと変容してきたものとを同時に掌握してください。
・・・このような愚かな要求をしてまかりとおるのが「(近代)芸術」の世界だ。

しかし私たちはネットの世界における断片化作用という試練にあって、あらためて「無名の作者たちによる作品群」の中に紛れ込むことを知る。
これは絶望的な体験でもある。
誰ひとり、わらべ歌の無名の作者たちを超えることなどできないのだから。


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