「表現」と主体 ― 心的リアリズムに向かって
textes/思考
written 2007/4/17
「作品を書くことは、作者の内面や美意識の表現である」
などというときの「表現」という言葉が好きになれない。
「表現する」という言葉は、使役される対象(目的語)を必要とする。「○○を表現する」という、その「○○」は不可欠のものであって、「○○」なしに「表現する」行為が成り立つわけがない。いや、そればかりか、「表現する」という動作はその目的語となる「○○」に従属しているとさえ言える。
「作品とは○○の表現である」という言い回しは一般的であるが、それだけに意味するところが曖昧になっている。この言説をいくつかの用語に従ってモデル化するなら、下のような図になる。
「書く器官」が一個のブラックボックスとして働き、書く者の内的領域に存在する「表現されるもの」である各コンテンツが、これのInput端子に接続される。そして「書く器官」のOutput端子からは「書かれたもの/エクリチュール/作品」にケーブルがつながっており、Inputされたものが形状を変えて(あるいは「形状を与えられて」)再構成されることになっている。
このようなモデルにあっては、「表現する」という一連の機械動作はInput側に接続された心象領域のエネルギーに依存しており、「書かれたもの」は結局、シニフィエ「表現された内容」を指し示すシニフィアンであるにすぎない。シニフィアンがひとつのシニフィエを指し示すだけで他の機能を持ちえないこのモデルにおいては、作品とは結局、「表現されたもの」=意味内容に従属し、決して超えることがない。
AからBへの転移がいかにテクニカルであろうとも、しょせんコピーはオリジナルを超えることができないのと同様、Aの価値がそのままBの価値として限定されてしまうのだ。
一方、主体と外界という関係は、このままではいつまでも静的であって、主体は変容するべくもなくたたずんでいる。たたずんだまま、主体の「内面」領域の諸コンテンツAは肯定されっぱなしである。
書かれたものBが「高邁」であるなどというならば、書く主体の内的エレメントAも「高邁」だということになる。そのような「高邁な内面」などというものがどこに存在するというのか? このモデルでは、「内面/意味内容/心象/思考」を批判しうる他者が排除されてしまっている。
私は「主体」をもっと動的にとらえる。必要なのは自己肯定ではなく、途切れない更新であって、それは他者との諸関係の中では当然なことなのだ。。
下のモデルにあっては、動的で非連続的な(必ずしも一貫しない)主体群として自己は解体される。
この鎖状モデルは、書かれたもの=エクリチュールが、連鎖的な反応によって「新しい主体」を次々と召還し、主体とエクリチュール(エクリチュールは他者である)との諸関係を絶えず変動させながら構築されていくことを示す。
最初に主体aがなす行為は「感情の流出」であろうが「ストレスの発散」であろうが、何でもよいのだと思う。
主体aによって書かれたものAは、それを読む者/受け手である新たな主体Bに何らかの作用をもたらす。主体BはエクリチュールAを、他者の身体性として読み取り、さまざまな解釈の渦中をとおして新たに関係を結ぶ。主体Bはそこで、さらにエクリチュールに問いかける。あるいはその欠損を補完するためであったり、ヴァリエーションを要求するためであったり、批判や抵抗によって動揺させるためであったりもするだろう。
いずれにしても、このような連鎖がエクリチュールを展開していく。
最終的なエクリチュールとは一個の身体であるため、それが分裂することはないが、主体a、b....はそれぞれ、エクリチュールという他者によって遮られているため、互いに断絶している。書く主体とは、このモデルの中で非連続的な存在なのだ。
他者との出会いがいつも自己を揺さぶるように、書く主体は動揺し、振幅を余儀なくされる。
そしてこの振幅が大きければ大きいほど、書かれたものは最終的に高次さを増し、あるいは深さを持つようになるだろう。
こうして「表現」とは違う角度から書かれていったものは、書いた主体を超えた生命を持つに至るだろうというのが、私の仮説である。「表現」から離れるということは、自己の自己像に拘泥しないということだ。このモデルにおいては、書く主体は次々と滅亡していかなければならない。その一方で、「読む器官」=眼はどこまでも生き延びる。見失うことなく、視線をそらすことなく、眼は在り続ける。
この最後に形成される「読む主体」の心的現象の方が「書く主体」の欲動よりも、私のモデルにおいては重要なのである。最終的なエクリチュールが召還するこの主体は、さまざまな振幅を伴った記号作用を受け取る。その深さと振幅が、心的にするどくリアリスティックであれば、作品は主体を転倒させるほどの美的体験をもたらすだろう。
以上の文章の最後の部分(それは性急で飛躍的であったが)が私の心的リアリズムの要旨である。
私がいう心的リアリティは、一面的な「表現」行為からではなく、むしろ書く主体自らが動じ、転倒され、転生し、諸体験を体験していくことによって深みにはまっていくような、身を裂くような感覚を伴う作業の中で生まれてくるものなのだ。
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