「内面」の解体
textes/思考
written 2007/4/15
なぜ多くの若者は「内面」という語に惹かれるのか。
この「近代的」な用語をとかく振り回しながら、「芸術は内面の表現でなければならない」とか「内面的な深さ」とか、ステレオタイプな言い回しを相も変わらず重ねるわけだ。・・・ポストモダンすら過去のものとなった、この現在においてさえ。
そもそもこの「内面」とは何を指すのかよくわからない。その実体は何だろう。
ほんとうはここで、「内面 interior」なる語がどのように歴史に出現し、幅をきかせ、どのような経緯で滅びていったのかを、各種の文献をくまなく探して解析するのが正しいやり方であろう。だが「時間がない」といういつもの言い訳で、私は推論を飛躍させてしまおうと思っている。
「内面」はまずは「外面」の対語として出現するのだろうから、それは根本的に、相当古い時代の心身二元論に由来しているものにちがいない。
定義できないままでは論じようもないので、仮にいくつかの視点でこの語を限定してみよう。
ところで、内面が「意識された自己像」に過ぎない以上、そこには「無意識」や「深層心理」が欠落している。
フロイトによる「無意識の発見」は、こうした芸術/文学上の「内面信仰」をくつがえすパワーを持っていたはずだ。20世紀初めにくっきりと痕跡の残されている「知の歴史の地震」において、フロイトの言説の出現と前後してダダ、シュルレアリスム、あるいは各種のモダニスム、ある種のニヒリズム、ソシュールやフッサールによる思考の転換、といった輝かしくも破壊的な振動がヨーロッパ中に伝播した。もちろん、産業構造の転換など、生活面での大転換とも重なっていたことは言うまでもない。
モダニスムとは「内面」などという近代的自我への反逆だが、それをもっと徹底的に成し遂げたのはむしろ科学的な分野である。
精神分析は疑似科学に過ぎないという声も聞こえるが、生化学の分野でも「内面」の解体作業は進んだ。精神的な現象を具現化しているものとして、シナプスの化学物質やホルモン、あるいは遺伝子という無臭の物質によって心を或る程度まで語りうるようになってきてはいる。(しかし、心的現象をすべて自然科学的な理論によって解析しつくすのは結局ムリだろう)
「内面」なるものを根底から揺さぶったのは、あるいは戦争体験であったかもしれない。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くのは不可能だ」というアドルノの有名な言葉は、なお衝撃的な重さを失っていない。実際、苛烈な虐待、極限的な状況を経験しているさなかにあっては、「内面」など、何ほどのものでもないだろう。アイデンティティなどという「見せかけの持続」は、そうした瞬間瞬間においてもまだ保守され続けたと考えるのは難しい。こうした場にあっては、まさに「内面」は暴力的に粉砕されたのだ。
「現在」に住む私たちが「心的現象の場としての自己」について語りうるのは、それはむしろ理論的には矛盾に満ちた機械組織だということだ。
こんにち、身体と心が一体のものだというのは常識であって、たとえば抗うつ剤などの薬物の投与によって、心的現象をある程度までは影響しうるということがハッキリしている。
しかし「内面」が解体されて私たちが寂しいことは事実なのだろう。どのようにそれが解体されようとも、いまここに意識を持続している「主体」は消えはしないし、「記憶」も非連続性の中に解消しつくされはしない。
では「主体」はどうなっていくのか? それを問わなければならない。
現在の若者たちの「内面」は既にその内面性が希薄になっているようにも思え、だからこそいま、必死で「内面」という語にしがみつこうとしているのかもしれない。
「自己啓発」だの「宗教」だの、人々は「主体」をどこかで保証し、言説化してくれる場を必死で探しているのかもしれない。
それでも(近代的な意味での)「内面」が復活することはないだろう。
私たちは、自らの主体性とあらたな関係をむすぶ方法を考えなければならない。
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