芸術原理
textes/思考
written 2006/6/29 [ updated 2008/12/3 ]
音楽等各種の「作品」制作に関して、私の根本的なスタンスを示すために、この文章を置きます。
この文章は、折に触れ追記され、改訂されていくことになるでしょう。
(2008.12.3全面改訂、未完結)
[2008/12/3記 未完]
終わらない芸術
芸術という言葉は、ほんとうは好きではない。
それは前時代的なイメージを一般に伴うからだ。
20世紀は「偉大な芸術家」という物語を失った。「芸術の創作」をめぐる過剰な想念はたぶんロマン主義に由来するものだろうが、とっくに威力を失ってしまったし、それどころか、「人間性」「意志」「秩序」「美」等の観念はすべて括弧でくくられるようになり、かつてのような強大な引力を疑問視されるようになった。
20世紀は冷ややかな認識へと我々を導き、ある意味では、そう、フーコーが語ったように、「人間」は消失していった。
近代西洋が言及して来た「芸術」概念ももはや怪しげであり、パロディ化の対象ではある。
しかし、そういった「概念の解体」とは別に、現在も、そして間違いなく未来も、絵画や音楽や文学は存続して行く。人類の営みが続く限り、それらは完全に絶えることはないはずだ。「近代芸術」が壊滅しても、芸術は消失しない。だから終焉を嘆く必要はない。私たちは、ただ近代的な流儀で芸術を語ることができなくなったというだけなのだ。
他のジャンルと比較して著しく分化が進み、近代性の血を引く「純粋芸術」流派が壊滅の危機に陥っているのは、音楽だろう。
「現代音楽」と呼ばれる欧米の前衛路線は、20世紀後半にいよいよカルト化し、聴衆を失っていったわけだが、ほんとうの意味での「現代音楽」をいわゆるポピュラーミュージックも含め「こんにち、都市圏を中心に聴かれ・演奏され・作曲されているリアルタイムな音楽全般」ととらえ直すならば、その凄まじいほどの多様化に感嘆することになるだろう。しかも、人々(大衆)は常に音楽をほしがっている。実際にはあまりにも過剰なほど、音楽は街中に満ちあふれており、誰かテレビ番組内の、ひっきりなしのBGMを禁止してくれないかとうめきたくなるほどだ。
都市文化圏で人々が享楽している消費材としての「ポピュラー音楽」は、時間とともにただちに消えてゆく運命にある。次から次に新しい(微妙に違う)スタイルが現れる。この新陳代謝が経済圏としての音楽文化の命脈であろう。対して、「クラシック」系、「純粋芸術」系の音楽家たちはまだ普遍的な価値を創出できると信じているかもしれない。
やがて地上のすべての街が崩壊し、社会も歴史も消滅し、人々はびっこをひきながら焼け野原を歩いてゆく。生を再建するためさまよいながら、いつしか誰かが適当に歌い始める。それはおそらくもともと音楽家ではない、名もない人間だ。
このときやっと、廃墟のかげから「本当の音楽」が現れて来るだろう。
近代の、特にゲルマン的な芸術家たちは、芸術の創出の基礎を何らかのイデーの発現と見なしていたようだ。観念であれ、思想であれ、感情であれ、具体的な事象であれ、近代人はおおむね何かを「表現」しているつもりだったのかもしれない。
こんにちではさらに「自己表現」という、意味のよくわからない変な言葉で「芸術活動」を説明しようというのが常識らしい。だが20世紀において芸術諸分野の「先端」においては、むしろこのような考え方と対立する傾向が特徴的だった。
おおざっぱな傾向として、20世紀の「芸術」は、近代的な意味素や構築性をいったん削ぎ落とし、素材そのものの「存在」に対峙しようという流れがあったと思われる。
西洋絵画では、色彩や形状といった元型をむき出しにして「ほんらいそのものに属しているわけではない意味要素」から解き放とうとしたし、音楽も「気分」や予定調和的構成法から「音」を解放しようとした。「現代詩」は言葉それ自体の輝きを求めるため、一時的に文脈的意味を撹拌し、ゆさぶり、通常の言語体(散文等)では表現しえないものを露呈しようとしている、と理解すればよい。
こうしたモダニスム傾向は、近代人の自己解体のようにも見えるため、「芸術は終わった」とか「ダメになった」とか嘆く人々が多かったし、未だにそんなことを言っている者もある。
新鮮なモダニスムに比べ、20世紀後半はもっと混沌とした雰囲気だが、総じて70年代以降世紀末にかけ、単に前衛的であることに飽きたのか、オーソドックスなものも含め、より広範な手法を自由に取捨選択するスタイルに傾いたようだ。音楽では調性や旋律が部分的に回復する傾向が見られたと思う。
以上歴史の視点で芸術様式の変遷をおおざっぱに語ってみたが、実はこんな記述にはさほど意義はない。個人はいつも「時代」を全面的に背負って行かなければならない。作品もまた。しかし、時代様式そのものを最終的な目標とするべきではない。
近代西洋人は歴史を何らかの「発展」の経緯と考え、時間が経つとともに自分たちの知も技術も右肩上がりに上昇していく、と考えたがった。このような思考法は、「近代西洋人による世界支配」という権力主義的妄想にすぎない。ドビュッシーやシェーンベルクなどは、遺された文章を読む限り、自分は一時代を画する仕事をした、歴史は自分の手によって進路が変わった、というような自負心と歴史意識を持っていた。もっと新しいピエール・ブーレーズやシュトックハウゼンにも、このような意識が強いようだ。日本社会的感性から見れば「思い上がり」に思えてしまうこのような心性は、ヨーロッパ特有の何か(社会と個人との連関の点で日本的心理とはまるで異なった特性)を物語っている。
私には近代ヨーロッパの大家の手による楽曲が、中世頃のインドの無名な作者による楽曲より、必ずしも優れているとは思えないし、グレゴリオ聖歌よりも古いヨーロッパの旋律に比べて、後期ロマン派の和声の方が勝っているとも思えない。
ただ、その時代その時代に固有の、必然的な様式(および思考の枠組み)なるものが存在し、どのクリエイターもその枠組みに縛られているということは確かだ。ルネ・デカルトが当時のキリスト教の教条から一歩も外に出ることができなかったのと同じように。
だが芸術の分野では、時代だの様式だのを超えた部分で、最終的に真の価値が決まる。優れた作者はまちがいなく「時代」に従い、限定された視野の中で仕事をしているのにも関わらず、「時代」の前面に並ぶ、議論の白熱するあれやこれやを乗り越えた生命が、時おり一挙に躍り出てくるのである。この生命の衝撃は歴史などという仮象を粉砕してしまう。
こうした暴力性は、特権的なごくごく一部の、いわゆる天才に見受けられるものだろうが、凡人には、そう簡単に限界を超えることはできない。それでも「いまここにはない音楽」を渇望することはできる。
「いまここにはないもの」への欲望が、彼の狂気をかたちづくる。
狂気はシステム(時代様式の身体組織)を破壊するより先に、彼自身の精神をほろぼすだろうか?
いずれにしても私たちアマチュアの特権は、歴史の「最前線」であくせくしている「前衛」のプロとは異なり、時代様式がどうのといったことについてはほとんど気にしなくて構わない点である。アマチュアには責任がない。自由だ。何をやったってかまわない。ただ、芸術の観点から、心的な厳しさの度合いについては問われることになるだろう。
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