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ポーシロスチ

textes/思考

written 2004/8/14


ナボコフ「ニコライ・ゴーゴリ」(平凡社・青山太郎訳)のなかに、注目すべき概念が出てくる。
「ポーシロスチ poshlost」だ。
「poshlastとは単に誰が見てもつまらないというだけのものではなく、偽りの勿体ぶり、偽りの美しさ、偽りの利口さ、偽りの魅力をも意味している」(上掲書)。
もうちょっと引用しないとナボコフの意味するところは伝わらないだろうが、興味のある方は直接読んでください。

で、このポーシロスチ、私の理解したところでは、たとえばわが国の「漫画」で、「ちょっと格好のいい決め台詞を口にするときの、その人物のアップ」が描写されるところを思い出してみよう(これは極めて陳腐な「技法」で、非常にしばしば現れる)。
この「決め台詞」(たとえば友情や愛や正義感を堂々と賛美するような台詞・・・日常の私たちなら、赤面せずには口に出来ないような台詞)が発語される瞬間、その人物の顔がアップになる(空などの風景になることもある)。そのコマは必ず大きくなるだろう(もしかしたら見開きにわたるかもしれない)。
顔がアップになったとき、その顔はいつもの何倍か丁寧に書かれる。「いい表情」をつくろうと、作者が精力を注ぎ込んでいるのが手に取るようにわかるはずだ。
・・・この「決め」の台詞に納得できなかったり、うまく乗れなかったりすると、読者は一気に鼻白んでしまうだろう。 しかし、内容の薄い(思想の浅い)漫画ほど、こういう場面がたくさんあるのだ。

上記の例は「紋切り型」にもなっているが、まあ、うまい例が思いつかないので仕方がない。
音楽に関して似たような例がある。
たとえばいつでも多用される「駆け上がりフレーズ」だ。
これは「盛り上げるために」作曲家が使う常套手段で、そもそも「上行音型」が気分の高揚をあらわす、というのは普遍的な真実なのだから仕方がないところではあるが、紋切り型の「駆け上がりフレーズ」というのは、 たとえばサビの直前など、一気に盛り上げたいとき、16分音符等の細かい音符をつかい分散和音や音階上を一気に駆け上るようなフレーズだ。弱拍、というかサビ直前の小節の最後の拍(又は小節の後半)あたりによく出現する。
これなんかも、場合によっては「あ、またやってるなー」などと鼻白む場合がある。そうなったら逆効果で、もはや盛り上がりも何もない。

では、このようなポーシロスチを徹底的に排除すべきだというのか?
いや、そうではない。紋切り型だろうがなんだろうが、最終的に結実されるものが肝心なのだ。
要はそのような手管を用いながらも、何が達成されるのかということだけだ。それは心的にリアルなのか?ということだけだ。
モーツァルトの有名なト短調交響曲(40番)の終楽章の、最後の部分で強烈な「駆け上がりフレーズ」が繰り返される。だが誰もそれを紋切り型だなどとはいえない。そこにたち現れてくる心情が、あまりにもリアルだからだ。


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