中間言語としてのWeb
textes/思考
written 2004/7/17
すでにブログ・掲示板・チャット・メールといった言語の流通領域は、エクリチュールとしての「HTML」も「作品」も凌駕しているのかもしれない。
言語をとりあえずパロール(話される言葉)とエクリチュール(書かれる言葉)に分けるという、ソシュールによるふるいモデルに沿って言うなら、インターネットで現在飛び交っているのはむしろ、その中間に位置する言語体であるかもしれない。
インターネットが爆発的に普及したとき、それまでは沈黙する大衆にすぎなかった層が、むやみに「ホームページ」を開設した。ここまでは、インターネットにはびこっていたのは単純に「エクリチュール=書かれた言語」であると見ていいだろう。
しかし、現在の状況を見ていると、事態はさらに進展し、まもなくHTML記述による「ホームページ」は下火になり、くすぶっていくような気がする。
(さきにniftyフォーラムのようなパソコン通信という技術があり、これはすでに中間言語の先例であったかもしれない。こんにちの掲示板の隆盛などはその拡張というにすぎないのかもしれない。だとすると、中間言語とは真新しいものではなく、コンピュータ・ネットワークがそもそもの最初から兼ね備えていたひとつの特色であるのかもしれない。)
個人「ホームページ」におけるHTML記述にかわり、いま重要な位置を占め始めているのはある種の「Webサービス」である。
すでに掲示板・チャットは、エクリチュールとしてのHTML記述体を凌駕しているのかもしれない。
掲示板などに書き付けられた言語は、本来「書かれたもの=エクリチュール」として機能するはずなのだが、その発話じたいは「話されたもの=パロール」の領域にある。そしてそのことを、書き手たちは明確に自覚しているはずだ。
個人間の発話(パロール)はただちに消え去るはずだったのに、インターネットでのそれは残り、極めて広範囲にまでおよび、さらには発話者本人でさえ予測できなかったような影響を引き起こし、気づいたときにはもはや撤回もできず、責任をとることさえままならない。
発話者からも、(特定の)聞き手からも切り離されたこの中間言語がなんなのか、みきわめるのは難しい。
日本にもようやくブログがやってきて広まりつつあるようだ。これはHTML記述という労力から人々を開放し、中間言語がとびかう、想像上のコミュニケーション領域へと全面的に向かわせるのかもしれない。
そうなると「書かれたもの=エクリチュール」はどうなるのか?
エクリチュールは芸術と呼称される一隅の分野、あるいは虚構のエクリチュールとしてWebを支えるプログラミング言語として、影のように生き延びていくだけなのかもしれない。
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