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音楽というラング

textes/思考

written 2002/1/26


 今日、音楽は、共同体のラング(言語)である。
 商品化された音楽は細かくジャンル分けされ、それぞれが「シーン」を成し、相当数の愛好者たちを抱えている。こうしてほとんど直接的な接触をもたないまま、メディアを通して共同体が大量に形成され、文化の諸相としての場を設定する。それは人々がLifeを消費するための場所なのである。
 
 たとえばユーロビートの愛好者たち。モダン・ジャズの愛好者たち。演歌の愛好者たち。アイドル系ポップスの愛好者たち。
 これらは、個人レベルで重複することはありえても、それぞれの共同体は独立を保っている。
 クラブ、テクノ、ハウスなど、隣接する共同体の場合、それらの間の関係は比較的ゆるやかで、ある面ではそれらはより大きな共同体を形成する一区画となっている。だがそれは共同体の名づけ=ジャンル分けの問題だ。
 
 各共同体内部での共通の言語=音楽は、共同体の結びつきを維持するための装置であり、ラングである以上、少しずつ体裁を変えていくものの、基本的には定型のフォルムで再生産が続けられる。規範からの急激な逸脱は、共同体によって禁じられているのだ。
 演歌のサビでドラムがいきなり白熱し、ジャズ風にソロを展開しても、眉をひそめられるだけだ。
 典型的な共同体のラングに浸るとき、その共同体に属する個人はおおきな安心感に包まれる。外部の音は遮断され、そのラングに特有の語彙で、なじみぶかい言説(ディスクール)に抱擁されるのだ。
 
 クラシック音楽とは元来、前衛的な表現なのであるが、今日ではやはりポピュラー・ミュージック同様、いくつかの共同体の場となっている。
 保守的な古典期音楽愛好者たちの共同体は実験的な無調音楽を許さないし、19世紀ロマン派音楽愛好者たちの共同体はビートを受け入れない。受け入れるために、人はいったんその共同体をはなれなければならないのだ。
 
 音楽の共同体はメディア上に存在するゆるやかなものだから、個人は複数の共同体を渡り歩くこともできる。
 すべて渡り歩けば、音楽の全体像が見えるのだろうか?
 いや、全体はひとつに結びつくのではなく、文化がもつ様々なディスクール(言説)に回収されていってしまうのだ。
 そしてそれぞれの音楽的なシーニュは、フロアに並べられる。

 ところで私は、なにかの共同体のなかで作曲を行っているのだろうか?


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