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親なき世界 〜 「パンダコパンダ」の幻想

textes/批評/メディア

written 2003/1/28


マイナーな作品と思われるので概説を・・・
1972年のアニメ映画。宮崎駿脚本・画面設定、高畑勲演出。
主人公「ミミコ」は小学生だが、両親がおらず、祖母との二人暮し。祖母が用事で遠くへ行ってしまい、ミミコは家で一人になってしまうが、そこへ言葉を話すパンダの親子がやってくる。

 宮崎駿氏の初期作品ということで、これはどうも、最近復刻されたものらしい。妻が子どものためにDVDを買ってやったのだが、これが2歳の娘になかなか気に入られたようだ。
 大人の目から見て優れたアニメ映画というわけでもなく、どちらかというと三流の作品なのだが、この他愛のない物語の何かが、むしろ大人の心を不安に陥れる。
 
 ここには親たちを抹消し気ままに世界を楽しみたいという、子どもたちの痛切な願望が如実にあらわれているが、そのメカニズムがちょっと、無意識界のつくりだした象徴的な絵巻のように、剥き出しの不気味さをともなってあらわれているのだ。
 
 まず、子どもにとって一般に最もこうるさい存在かもしれない「母親」は、物語の最初の方でいきなり「おばあちゃん」という弱々しい存在に置換されたうえ、どこか遠くへと追放される。
 こうして小学生の一人暮らしという、一般にはありえない書割が用意され、「家」は子どもに占拠されてしまう。これは単に「子ども部屋」の不可侵性を暗示しているのかもしれない。
 次に子どもが欲求したのは「ままごと」である。
 言葉をしゃべるパンダ親子が出現する。子の方(コパンダ)は、「動き出したぬいぐるみ」であり、親の方(パパンダ)は、「パンダというまるい姿にまで去勢された代理父」にほかならないだろう。
 そうして主人公(ミミコ)はコパンダの母親になり、パパンダはミミコの父親になるという宣言にもとづき、ままごと遊びが始まるわけだ。
 親が追放あるいは去勢されたことによって、子どもはそこらじゅうで逆立ちし、テーブルに乗って遊び、家を破壊する。去勢された人畜無害な父親は、ただひたすら竹をかじっている。
 
 物語の後半では、パンダ親子を捕まえにきた動物園の職員や警察官たちの追跡劇となり、最後には動物園にもどされるわけだが、こうしたストーリーにはたいして意味はない。ただ単に、スリルが持ち込まれたというだけだ。
 パンダが動物園に戻っても、ままごとの世界は破壊されずに持続し、この無意識による「親の去勢劇」はその永続性が保証される。
 
 子ども向けのマンガ類では、このように親の存在が、追放されたり去勢されたり、あるいははじめから無視されているものが多い。特に昔のマンガに多いような気がする。
 これはいうまでもなく、親の不在による「世界の占拠」をめざしているからだ。
 一方で、リアリティを備えようとした一群の子ども向けマンガは「親」も描出した。たとえば「ドラえもん」などがそうだろう。しかし、この構造では、いつも子どもの欲求は満たされない。だから、子どもに代わる何か別の存在が、欲求を充足させる役割をになう。藤子不二雄氏の作品では常にこの構造が固定されている。


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