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書くことについて

textes/思考

written 2002/1/22


 言葉を選び、紙の上に何かたしかな存在であるかのように文字を並べ始めると、あるとき自分の身体がふっと消え、言葉がもとの意図を超え自律的に組成されてくることに気づく。

こうして作品が生まれる。

「誰が」「誰に」「何のために」書いたという刻印は消え去り、ただそれ自体として存在し、一挙に普遍性を身につけたとでもいうように、「作品」はふるまう。  だがそれは幻想だ。時代の制約とか、書き手の限界とか、書かれたもの(エクリチュール)にはさまざまな刻印が刻まれて残っている。ほとんどの場合それらは予期しない不手際であって、芸術作品の制作者たちは、いつもこのことに苦悩しているのだが。  ラジカルに考えてみると、書くことには危険が伴う。いずれにしても書き出されたそれは不浄な身を、無防備なまま無数の視線の中にさらすことになるのだし、期待されるコミュニケーションを破綻へと導くかもしれず、幸運だった場合には、ただ単に無視されて終わるかもしれない。  コミュニケーションが空回りを始めた時代に、私たちはただひたすら誰の目にもとまらない言葉を垂れ流し続けているだけなのだろうか、という疑問も湧いてくる。ことに、インターネットの世界では・・・。

 いずれにしても、書くことは、生きるために必要のない何かであり、生きることを忘れるための何かであるに違いない。  アントナン・アルトーの吐き捨てるようなつぶやき、「すべて書かれたものは、豚のように不潔だ」。

引用文献 アントナン・アルトー『神経の秤』1925 清水徹訳/現代思潮社


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