コミュニケーション、他者、理解
textes/思考
written 2002/3/1
共同体の内部において、共同体の言語(ラング)を用い、コミュニケーションをはかること、これはとても簡単だ。だがそれは、本当の「コミュニケーション」なのだろうか。
だいたい、「コミュニケーション」とは何のことだろう。
他者を他者自体のままに受け取り、自己を愛するようにではなく他者を愛するという奇跡のようなふるまいを誰が可能にするのだろうか?
私が言っている他者とは、レヴィナスが言っているような「他者の他者性」を指しているのだが。
会話を通し他者を理解した、と思い込んだとき、実は他者の中に「自分と同一の部分」を見出しただけにすぎず、他者の他者性を剥奪し、強引に自分の脇に他者を引きずり倒しているだけなのではないだろうか? ・・・人はいつも「わかったようなつもり」でいないと不安でしょうがない存在だから、自分の貧相な尺度を周りのすべてに押し当てて、悦に入っているだけかもしれない・・・。
他者は、恐怖や憎悪の対象、あるいは無限の憧憬の向こうにしかいないのだろうか?
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