[ カルロ・ジェズアルド ]へのコメント
textes/批評/音楽
ジェズアルドに対してアマチュア故の不完全さという評は、一面正しいのですが、現代の目から見ると十分じゃない気がします。
さて西洋音楽は完成度(多くは調的なそれ)への追及をその重要な規範としてきたのです。(たぶんロマン派をより簡便な形で引き継ぐ大衆音楽も)しかし、現代では「完成度」という発想自体が相対化され、あえてそうでないことを選択する音楽も広範に存在し、独自の価値を主張しています。
たとえばショスタコビッチの24の前奏曲やソナタ1番はいい例証となるでしょう。大衆音楽ではセロニアスモンク・セシルテイラに代表される「旋法」「不協和音」「非調性」「反リズム」の追及があげられるでしょう。いずれも大変魅力的な音楽を実現しています。
完成度が劣るということは、現代ではむしろ積極的な価値と評価するべきではできないでしょうか。このようなものはたとえばゼレンカやヴィヴァルディやスカルラティにも見られますよね。
(09/8/1 23:42)
Res
gkrsnamaさん、はじめまして。
意義ふかい書き込みをありがとうございます。
ジェズアルドとアイヴズを並べ、熟成されない語法、しかし刺激的で後代から見れば一気に時代を先取りしてしまったかのようなサプライズがある。どちらも、穏便な語法に対して何やら破壊的と言っていいような、「踏み外し」が見られる。これらの点をオーソドックスさ・アカデミックさに対してアマチュア的とイメージしたのですが、不協和音を使ったりアンバランスな表現が見られることに弱さを指摘したわけではありません。
ジェズアルド成熟期の音楽の、何やら不安定な気配は、それ自体私は好きですし、私が最も敬愛するクラシック作曲家であるストラヴィンスキーも、ジェズアルドが好きだったようです。
ただし、ジェズアルドはその語法を最後までしっかりと熟成させることはできなかったと思います。そういう意味でのアンバランスさであって、形態学上のアンバランスさではありません。
そもそもジェズアルドの時代には作曲家はまだ作曲家として、プロフェッショナルな職人としての地位は確立されていなかったと思いますが、それでも、ラッススにしてもヴィクトリアにしても、いわんやモンテヴェルディにしてみても、職人的な技量を感じます。一方、ジェズアルドの作品にはそうした「わざ」よりも、実験室での試行のようなおもむきがあると思います。実験して起きてしまったできごとを更にまとめあげ、活用する力量は、ないかもしれない。
できごととしてのジェズアルド作品は、好きですよ。でも、それを誰かが受け継いで進展させる必要があるように感じるのです。
(09/8/2 19:33)
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